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Kittyは映画が大キライ

私の私による私のための映画レビュー

『ラ・ラ・ランド』 映画が映画を殺した日

『ラ・ラ・ランド』(原題 : La La Land)

デミアン・チャゼル監督

2016年

 

アカデミー賞がどうとか、ストーリーが云々とか、そんなことはどうだっていいのです。この映画は、映画が背負い、築きあげてきた全てを乗り越えてしまいました。

 

映画のリアリズム

 

アンドレ・バザンはかの『映画とはなにか』(Qu'est-ce que le cinéma ?、1958〜1963)で、いみじくも映画がリアリズムの装置であることを暴きたてました。映画は演劇とも絵画とも異なる視覚芸術であるということを誰一人疑わなかったように思います。

如何に人間は"見る"のか。それはリアリズムだけの問題ではなく、還元的唯物論にとっても極めて重大な謎でしょう。"見られる"対象はあって、"見る"主体がいて、それでは"見る"という行為はどこに存在するのか。もっと言って仕舞えば、視覚オブジェクトと視覚系の神経基盤は存在するが、それではクオリアとは、心的表象とはなんであるのか。

映画と自然視の違いについては、以前別の記事で紹介した通りです。結論から言えば映画を観るとき、人間は物理的な現象よりもその現象の持つ意味から解を得ているらしいことが示唆されています(Schwan and Ildirar、2010)。要するに我々はただ単に運動やそれぞれのオブジェクトを知覚しているのではなく、それらを能動的につなぎ合わせることで映画を映画として楽しめるのだと考えられます。

 

『天才スピヴェット』 映画における"event"とは - Kittyは映画が大キライ

 

そうした心的メカニズムの特性を、映画作家たちは心理学者よりもずっとよく理解していました。グリフィス・モンタージュにしろ、スタニスラフスキー・システムにしろ、自然視とはまるでかけ離れた映像によって、極めてリアルな外界の表象を実現したのです。これこそが映画が映画たる所以であり、"映画の歓び"のもっとも本質的な部分でしょう。

しかし私には、そうした映画的リアリズムのあり方が大きく変わりつつあるように思えます。

 

イニャリトゥの目

 

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥが全く新しい映画を実現したことはもう常識になった頃でしょう。『レヴェナント:蘇りし者』(2015)は革命的でした。

、それまでの映画が自然視の世界をショットに解体した上で再構成することを目指したのに対し、イニャリトゥとエマニュエル・レベツキの映像はある一人称視点からの自然視を徹底的に忠実に再現します。それは『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)のようなシームレスな視点移動のみを指すのではなく、我々の視覚が持つ非連続性や曖昧さまでをも捉えてしまうキャメラワークです。この2人がVR映画なんてモノを作ろうとしているのは、至極当然の流れでしょう。リアリズムを超えた新しいリアリズムを体現するのがイニャリトゥです。

 

アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督がVRの短編を製作 撮影はルベツキ : 映画ニュース - 映画.com

 

チャゼルの耳

 

この『ラ・ラ・ランド』もまた、全く新しい時代の映画です。しかしチャゼルのあり方はイニャリトゥとは対象的に、聴覚の側面から定義されます。

映画が鑑賞者の心に結ぶ表象は、大きく3つの要因によって決定されることでしょう。映像、物語、そして音響です。しかし、トーキーの誕生から100年を経ても、映像と音響はほとんど独立していました。当然、映画音楽の傑作はこれまで無数に存在し、ミュージカルというジャンルは映画には欠かせません。すべて素晴らしい輝きを放っています。しかし、『ラ・ラ・ランド』のようにすべてが計算され尽くし、映像と音響が両方揃うことで初めて物語が成立するような映画はこれまでにありませんでした。

今までの映画において、映像と音響はそろぞれが独立して意味を完成していたか、あるいは映像の意味が音響によって強調されていました。「良い映画は音を消しても面白い」。こんな言葉が製作者にも観客にも流布していることからもそれがわかります。どんな傑作でさえ、それは2つの優れた作品を同時に提示されただけで、目と耳の両方を駆使して理解されなければ行けない映画は少なかった、あるいは全くなかったことでしょう。

そこを『ラ・ラ・ランド』 がひっくり返してしまいました。それぞれ1つずつではけして成立し得ない意味を映画館に見たしてしまった。統計学の言葉を借りれば、映画はついに主効果の時代を乗り越え、視覚と聴覚の交互作用を獲得したということになるでしょう。

具体的にどのシーンでどんな風に達成されていたかは残念ながらここには書けません。映画のネタバレになってしまうのはもちろん、じつはこの視覚と聴覚の協調については、現在の認知心理学のエッジであるからです。まだまだ探るべきことが多い領域ですし、そもそも人の研究内容を吹聴するのは研究者の禁忌ですから。ただ、『ラ・ラ・ランド』が音楽(さらには些細なもの音まで)をこれまでにないやり方で映画に落とし込んでしまった革命的作品であることは間違いないでしょう。

 

新しいアメリカ映画の時代

 

『ラ・ラ・ランド』はたっぷりの粋なオマージュと、伝統を受け止めた誠実な技術で魅惑的な作品でしたが、ただの懐古主義に陥らないところが傑作たる所以でしょう。人間の普遍的な姿を捉えながらも、繊細に今この時代を生きる人間の価値観を投影していました。映画のコードに従ってこうなるだろう、こういうパターンに違いないと思い込んだ観客を挑発するかのように、画面の中の登場人物たちはクルクルと目まぐるしく立ち回ります。喧嘩をするシーンにしろ、ただありきたりに喧嘩別れするのではなく、必死に平静を装いながら関係を維持しようと努める様子がリアルに描かれていました。とても現代らしい描写だったと思います。

映画としても、そこに現れる価値観としても極めて斬新だった『ラ・ラ・ランド』。世の中には軽薄な娯楽映画と見る自称知識人が多いようですが、いやこれは奇跡的な傑作です。