Kittyは映画が大キライ

私の私による私のための映画レビュー

『ノスタルジア』 映画は解釈できるか

ノスタルジア』(原題 : Nostalghia)

アンドレイ・タルコフスキー監督

1983年、イタリア・ソ連

 

なんでこんなに退屈なんでしょうか。思わせぶりでありながらも理解と共感を許さない独善的な芸術家気取り。しかも映画的な"歓び"を一切持たない映像。これが芸術なら、映画は娯楽のままでいい。

 

蝋燭と水と鏡と

 

映画は解釈されるものではありません。イベントをキャメラを通じる体験だから、ある映画がある個人に持つ意味は身体的で内密な主観です。映画はキャメラに映る以上のストーリーテリングをしてはならない。これは、ノーランやフィンチャーが低俗である理由の一つであることは疑う余地がありません。

さて、『ノスタルジア』はなんだったのか。この映画は一見すると意味を為していません。荒唐無稽で、何かを主張するかのような思わせぶりなセリフが連なります。しかしそこにはわざとらしい「解釈」の余地がひけらかされています。ここに手放しの賞賛の可能性が生まれています。

平たく言えば、小難しいことを自慢げに捲したてる監督と、それを通ぶってちやほやする観客の構図です。

面白い映画ですし、美しい映像です。タルコフスキーが重要な作家であることも事実です。しかし、このやり方は良くない。映画に図像解釈学的なモチーフを散りばめて、それを本題にしてしまったらそれは映画ではなく、"動く絵画"なのです。

前半に繰り返される水は、雨として降り注ぎ、古びた瓶に溜まります。欠けたり汚れたりした鏡が登場人物の姿を度々映します。極めつけは最後のシーンで、主人公(オレーグ・ヤンコフスキー)は蝋燭を大事に捧げながら温泉を渡り、遂には倒れました。

救い主は復活せず、聖母は穢され、主の栄光は弱々しい。そんな世界、そんな時代にあって、挫けそうな信仰を何度も奮いおこして遂には奇蹟を起こし、安らかに眠りにつく男。図像解釈をすればこんなところでしょうか。あまりにお粗末です。主人公が故郷に想いを馳せるシークエンスでは、キャメラは徐々に引いていき、祭壇画のような構図が浮かび上がります。この映画自体が聖人の伝説を描く絵画であると示すのでしょうか。そう思えば犬が何匹も描かれるのは羊飼いを想起させ、主人公が追う作曲家も救い主になぞらえた聖者に見えます。

結局のところ、こんな風に解釈しなければいけない時点で碌な映画ではないのです。映画に解釈を求めてはならない。メタファーやシンボルは、この純然たる視覚体験メディアを堕落させます。

 

『信じる人を見る宗教映画祭』

 

この作品はユーロスペースで先日まで開催していた『信じる人を見る宗教映画祭』で鑑賞しました。残念なことにスケジュールの都合でこの一本しか観られなかったのですが、それでも十分以上に勉強になりました。

「信じる人を見る」ということで興味深かったわけですが、私にとっては少し違う意味もありました。私自身が無教会主義のクリスチャンで「信じる人」ので、この映画祭は「見られる」映画祭でもあったのです。どんな作品が選ばれるか、それがどんな信仰を描いているのか。『シークレット・サンシャイン』(イ・チャンドン監督、2007年)が上映されたのが特に印象的でした。あれはわたしの信仰を根本から問い直した作品の一つです。初めて見たのはもう6年前になりますか。

もう一点、これが日本大学の学生によって運営された映画祭だったことも注目に値します。

わたしは都内で映画に関心領域を置いて認知心理学を学んでいます。しかし弊学には他に映画を学ぶ学生はほとんどいません。仏文や教養学部にはいるのかもしれませんが学際交流には至らず、てんでバラバラに細々と勉強しているくらいです。そんななか日大の学生がこうして、映画を学ぶ学生の力を結集し、広く示してくれたことには勇気付けられます。せっかく映画都市東京で映画を学んでいるのですから、わたしも映画研究を盛り上げていきたいものです。