Kittyは映画が大キライ

私の私による私のための映画レビュー

『世界にひとつのプレイブック』 神話とドラマの映画たち

世界にひとつのプレイブック』(原題: Silver Linings Playbook)

デヴィッド・O・ラッセル監督

2012年

 

決して駄作ではない

 

極めて評価の高い作品で、私も楽しめました。双極性障害を抱える男性(ブラッドリー・クーパー)が人との出会いと困難への挑戦を通じて家族との絆を取り戻し、救われていくという筋書きはありがちですが確かに面白い。ブラッドリー・クーパージェニファー・ローレンスロバート・デ・ニーロ、そしてクリス・タッカーといった俳優たちの演技も印象的です。その点では、彼らの視線に着目したキャメラは及第点以上なのかもしれません。というか私の好みと違うだけで多分個々の技術は今のアメリカでは評価に値するのでしょう。紛れもなく"アメリカ"の姿を映画に落とし込んだ名作であり、その意味では『フォレスト・ガンプ/一期一会』(ロバート・ゼメキス監督、1994年)や『アメリカン・ビューティー』(サム・メンデス監督、1999年)の系譜でしょう。もっともサム・メンデスはイギリス人で、極めてイギリス的な映画術を持つ作家ですから、『アメリカン・ビューティー』はけして"アメリカ映画"ではないのですが。それは置いておいても、この『世界にひとつのプレイブック』がアメリカの今を如実に表していて、恐らくはそれ故に評価された作品であることは注目に値するでしょう。

そもそも製作の動機を自分の生きる(あるいは単に関わる)社会に置いているか否かは別問題として、ある国の"今、ここ"を描いた作品はどの国にもあります。その国に出現した社会の様相が、映画の上に滲み出ている映画です。それこそ小津安二郎作品は、いかに西洋の技術だった映画によって日本人を取るかに拘泥していましたし、マノエル・ド・オリヴェイラオリヴェイラもいくつかの作品では露骨にポルトガル史の解体と再構築を試みています。新しくてセンセーショナルだったのは『マジカル・ガール』(カルロス・ベルムト監督、2014年)や『人間の値打ち』(パオロ・ヴィルツィ監督、2013年)でしょうか。『きっとうまくいく』(ラージクマール・ヒラー二監督、2009年)なんかもそうです。これらの映画はそれぞれが国と社会に向き合った結果ですが、その態度については全く異なるアプローチであるという事実こそ重要なのです。『きっとうまくいく』のついては過去の記事を類似の切り口で書いているのでそちらを読んでいただくとして、そのほかの作品に2つの分類を試みようかと思います。神話的映画とドラマ的映画の二つの概念を仮定した上で、両者の特徴を議論し、『世界でひとつのプレイブック』の最終的な評価を下します。当然、扱うのは「いかに社会を描くか」であって、「どんな社会を描くのか」という陳腐な社会分析ではありません。そういうのは町山なり宮台なりを読んだらいいでしょう。

『PK』/『きっとうまくいく』 どうしちゃったのインド? - Kittyは映画が大キライ

 

神話的映画の物語

 

神話的な映画とは何か。批評家たちはわりといい加減にこの言葉を使いやがるのですが、私もあえていい加減に使いたいと思います。私が今日ここに言う神話的映画とは、『マジカル・ガール』や『アブラハム渓谷』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督や『この世界の片隅に』(片渕須直監督、2016年)のような映画群です。本来は「その国の国民文化を"形成する"映画」と言うニュアンスが多少なり含まれるのかもしれませんが、あえてここでは「その国にすでに"形成されていた"国民文化を、個人的な視点で解体し捉え直す、その社会の普遍的な共感を得る映画」とします。どこかでも書きましたが例えば、『アブラハム渓谷』はポルトガル史をオリヴェイラが語るプロセスを一人の女性の肉体の上に重ねた映画です。その語りはほとんど監督の口による学術的議論であり、その在り方は『レステロの老人』(2014年)にも共通しています。思えば『アニキ・ボボ』(1942年)もそうですが、オリヴェイラのキャメラは常にモデストで、それでいて没入感があります。『アブラハム渓谷』における絵画的画面構成では、一くだりのセリフを宣言的に放った役者の顔を、正面から定点的に写していました。これは歌舞伎を想起させる美しさですが、同時に対話的な没入感を導き、その感性は『ハッピーアワー』(濱口竜介、2015年)にも継承されています。キャメラ装置は変わっても、正面からの真摯な役者の表情が対話の印象を、物語の印象を産み、社会のあり方を観客全てに投げかける点は完全にオリヴェイラの手法に一致していました。そしてこのやり方は"神話を語る"という、映画どころか小説さえまだない時代の「物語」の手法に通じています。

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個人的なキャメラという点では、『人間の値打ち』序盤のワンシーンがとても良い例になるでしょう。帰路についた男性—彼はこの後すぐに車に跳ね飛ばされ、それが物語の起点と焦点になるのですが—が自転車にまたがり、漕ぎだすまでの動作が映されます。ここでのキャメラは彼の動きに寄り添うようにブレた映像ですが、非常に控えめに彼の背面からのアングルに終始しています。カットバックやズームの動きがない、静謐かつ揺らいだ映像ですが、この映像は驚異的です。その場面のその地点に我々が存在し、キャメラを通した映像としてでなく、自ら体験としてその場面を観察したと仮定した場合に我々の眼に映る像と完全に一致しているからです。だから我々はその瞬間を生々しく息詰まる感覚で観ることができるのです。この作品のこのシーンに限らず、ヨーロッパ映画にはこうした一件控えめで客観的なハンディな映像によって、個人的な経験の緊張感を引き出す手法に優れているように感じます。

ここまで、個人的な没入感を引き出すことで、"語り"の特質を帯びた映像のついて述べました。神話的な、叙事詩的な手法です。興味深いのは、こうした映画はすでになんらかのー恐らくは小説や詩や政治や歴史ーがすでに語ったことをもう一度映画で語り直すときのやり方が、神話の語りと重なり合うという逆説です。ここについては後でもう一度、ドラマ的映画との比較でもう一度扱います。

それでは神話的映画の話題の最後に、それらが往々にして共有する特徴について述べしょう。

『マジカル・ガール』に描かれるのは、困窮の中で利己的に振る舞うスペイン人たちと、彼らを翻弄するシニカルな運命でした。まるきりギリシャ悲劇的ではありますが、同時にイギリス的演劇の風刺性も備えています。そしてそのキャメラは個人的な語りでもあります。この作品がスペインの"今、ここ"を捉えた神話であるのはまず間違いありませんが、さらに注目すべきは説明責任を一切放棄したプロットにあります。ひとつの悲劇が次の悲劇を生み出し、最終的には巡り巡って帰ってくるという大局的な視点は、ともすれば御都合主義です。そうなることにはリアリティがありません。バルバラ(バルバラ・レニー)は途中、不思議な"部屋"の試練に立ち向かうことになりますが、この試練がなんなのか、この試練を貸す老人は何者なのかは明かされません。これになんらかのメタファーを見出すことは無意味でしょう。なぜならこの説明不可能性こそが映画を神話たらしめる所以だからです。理由はなく、ただそうであるからそうなった。そのことを主観的な語りによって、事実ではなく真実として映像化する。それが神話的映画です。荒唐無稽で意味不明、デウス・エクス・マキナと言われても仕方ないプロットこそが、神話的映画が必然的に負う特徴だと言えるのではないでしょうか。

 

客観的で劇的な映画

 

こちらの分類に適した語を私は持ち合わせないのですが、とりあえずは「ドラマ映画」ということにしておきます。ラテン語の素養はありませんが、英語とイタリア語で考えると今の所はこの語が最も適切な気がするのです。

ドラマ映画の例として私の念頭にあるのはまずは『フォレスト・ガンプ/一期一会』で、これがまるきり神話的でないということを主張したいのですが、他には『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』や『17歳のカルテ』、『高慢と偏見とゾンビ』あたりです。というよりも、かなり多くのハリウッド映画がそうではないかと考えています。もちろんこの概念は私が即興で考案したものですから、ひょっとすると中には神話性とドラマ性を両立するものもあるかもしれません。私としても両者を二項対立に持ち込むという非科学的な態度はとらないつもりです。とはいいつつも、議論を整理するため、ハリウッドの神話的映画を先に考えてみましょう。

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『高慢と偏見とゾンビ』 心の底から楽しめました - Kittyは映画が大キライ 

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『ダーティ・ハリー』(ドン・シーゲル監督、1971年)は映画史に燦然と輝く大傑作であり、おそらくはこの地球上の存在する最も美しい創作物の一つです。この映画は神話的映画として捉えられるかもしれません。傷を負ったチコ(レニ・サントニ)とハリー(クリント・イーストウッド)の会話のシーン、ハリーがサソリ(アンディ・ロビンソン)を打擲するシーンなど、息詰まる迫力がありますが、極めてモデストな描写です。この映画にはサソリとハリーがアメリカ社会を舞台に対決する神話かもしれません。そこには"アメリカ"の語り直しがあります(イーストウッド本人がのちに述べているように、この作品の目的は社会風刺ではありません。帰結の一側面に注目しているだけです)。それはイーストウッドののちの出演・監督作品に共通する特徴でもあります。しかも彼の作品は劇的な(ドラマ的な)構造を脱し、展開のピークと演技のピークを敢えてずらすという特徴があります(蓮實重彦の指摘ですが、現在手元に資料がなく出典の詳細は不明です)。その意味でイーストウッド映画は神話的です。ただ、『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督、1976年)が神話的であるかは微妙な問題ではないでしょうか。スコセッシ作品は独特の編集先行のスタイルであり、個人的な没入感を導く主観的キャメラというよりむしろ、劇的な効果を生むモンタージュのように思えてならないのです。

ハリウッド映画を議論する上で重要なことですので、本来の「神話」についても少し触れておきます。私が観たところでは『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン監督、1952年)、『我が谷は緑なりき』(ジョン・フォード監督、1941年)、『素晴らしき哉、人生!』(フランク・キャプラ監督、1946年)あたりが鉄板でしょうか。"アメリカ"という、イーストウッドやスコセッシらそれ以後の映画が立ち向かうことになったイメージを形成した映画です。これらは「ドラマ映画」の系譜に直接流入していきます。本来はこちらこそが「神話的映画」でしょうし、私のやり方は批評の本道からすれば邪道か誤謬でしょう。ですがこれは批評ではなく感想文ですからこのまま続けます。

要するに、グリフィス・モンタージュを活用した客観的で一歩引いたキャメラワークと、整合性を強く要請する矛盾のないリアリティです。客観的なキャメラワークで取られた作品では、そこに起こるイベントは観客自身の視点で観察されるのではなく、キャメラが納めた映像を第三者的に観ることになります。例えば『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』では、我々は1920年代のニューヨークにいるのではなく、そこで起きたことを21世紀の日本の映画館で見ていることになるのです。これは没入感の点で劣るとか、面白みがないとかそういうことでなく、むしろ私はこうした態度こそ視覚世界の価値を再構成する"映画の歓び"であると考えます。我々はその映画において不在であるべきではないかと思うのです。観客不在で客観的に描かれる映像こそが、ドラマ的映画の特徴の1点目です。

次は、説明責任です。『マジカル・ガール』を例に神話的映画の説明不可能な荒唐無稽さを述べましたが、ドラマ的映画では徹底して理由と経過と結果が説明され尽くします。思えば『ダーティハリー』のサソリは、ある意味では説明不可能性の塊でした。一見彼の行動は合理的です。犯行に至るのはベトナムでのトラウマによる狂気から、黒人無免許医に自分を殴らせるのはハリーを陥れるため。ですがこれは本当に説明責任を果たしているでしょうか。私はそうは思いません。よく考えれば意味不明です。ベトナムで傷ついたところで人を殺す理由にはなりませんし、いくら作戦でも自分をボコボコに殴らせるなんてどうかしています。生々しいキャラクター性とは裏腹に、彼の行動原理は宙ぶらりんなのです。

では説明責任を果たしているとはどういうことか。『世界にひとつのプレイブック』がこそがその典型的な例であり、それによってこの作品は陳腐なのです。

 

神話にもなれず、ドラマにもなれず

 

世界にひとつのプレイブック』は社会に適応できない男と女、そして家族のあり方を描く作品でした。そしてそのそれぞれに具体的な問題とその理由が明確でに、くっきりと描かれています。例えば主人公は、感情を爆発させてひっきりなしにトラブルを起こし、自身もそれに悩み苦しんでいます。そんな主人公の状態は

双極性障害

・妻の浮気のトラウマ

父親(ロバート・デ・ニーロ)も似たような性格

という理由で、言語的・非言語的に説明されます。しかも彼が得る疎外感は、例えば帰宅直後に自分の写真だけが壁から外されている、という描写で具体的に説明されてしまいます。ブラッドリー・クーパーを使っているのにこんな過剰な描写が入るのです。彼ならそんなシークエンスもなくしっかりと主人公の孤独や不安を印象付けられたはずです。ただ、ここまではまあ良いのです。説明責任を果たすこと自体は、別にひとつのアプローチとして成立します。過剰ではありますが、まだ許容できます。

しかしこの時のキャメラワークがひどい。写真を見やるクーパーの視線をそのままなぞったかのような動的なキャメラですが、このタイミングで唐突に入ってもむしろ理解を阻害しストレス価を高めるだけです。Schwan (2010)にある通り、映画の理解度は現実の近くとの類似性ではなく、意味的な繋がりに強く依存しますから、このシークエンスは分かりにくさ、異物感を産む悪手でしょう。他にも私が神話的映画の特徴として紹介したヨーロッパ映画独特のキャメラを模倣するかのような一人称視点やパンショットが多用されていますが、そのどれもが的外れで、個人的な没入感を産むに至っていません。本当に残念です。

主観的なキャメラを用いようとして失敗したり、露骨に"アメリカ社会の闇"を描こうとしたり、社会派ぶって神話的映画の系譜を意識しているのが透けて見えます。これはほとんど『フォレスト・ガンプ/一期一会』にかさなりますが、あちらはそれでもドラマチックな画面作りで劇的な面白さは担保されていました。引き換えこちらはどれも中途半端で、薄っぺら、役者の名演がなければ救いようがない駄作になっていたことでしょう。過剰な説明と、没入感を阻害するキャメラ。それがこの作品を面白く思いながらも乗り切れなかった理由です。『世界にひとつのプレイブック』は、神話にもドラマにもなれなかった中途半端なキメラなのです。