Kittyは映画が大キライ

私の私による私のための映画レビュー

『この世界の片隅に』 アニメなんて観ないと思ってた

この世界の片隅に

片渕須直監督

2016年、日本

 

私はアニメーション作品を批評する技術と知識を持たないため、普段は滅多に観ないのですが、今作についてはユーロスペースの宣伝を見て以来気になってはいました。そんなときに三浦哲哉先生の絶賛を耳にしたので、思い立って観てきた次第です。

 

すくなくとも戦争映画ではない

 

第二次大戦中の広島・呉が舞台の映画ですから、当然戦争の話が中心になりますし、人も死にます。ただ、全体として戦争の悲惨さだとか、運命の過酷さをひけらかすようなところは全くありませんでした。この映画はもっと普遍的な、すずさん(声:のん)という一人の人間が、"この世界の片隅に"、いかように在るかを描いたドラマです。だから戦争映画で一括りにしたり、あえて日常映画だなんて言い方にして貶めたりすることはできないでしょう。(ウラケン先生の4コマ漫画がその辺を極めてわかりやすく説明しています。)ここでは敢えて、一人の女性の肉体の上に過ぎていった時間と空間の視覚表象とでもいっておきます。

 

私が強調したいのは、すずさんという主人公が生々しい個人として、"固い固い肉体"を備えた存在とした我々の眼前に登場することの素晴らしさです。冒頭では入祭の歌によって厳かに、ほとんど霊的な神聖さと共にすずさんの物語が開幕します。それは、のんによって幼いすずさんに"息が吹き込まれ"ることによって始まる"誕生"の儀式でしょう。この瞬間に産まれた浦野すずという女の子と共に、観客はこれからの2時間の上映時間を、そして10年に渡る戦争の時間を過ごすことになるのです。

まったくアニメというのは素晴らしくて、すずさんの上を流れる時間、すずさんが生きる空間をスクリーンを超えて描き切ってくれます。実写映画とも3Dアニメとも違う方法論が確かに存在しています。彼女が触れるすべてのものの質感を我々は共感的に感じます。踏みしめる土、まな板にあたる包丁、夫の腕といったあらゆる一切を観客も共に感じるのです。だから後半に戦火がすずさんの日々に迫るにつれて、観客の肉体も同じ苦痛に苛まれます。痛み、暑さ、飢え、喪失もまた、自分のものとして身に迫るのです。

クライマックスにすずさんが叫ぶ言葉は、文字に起こして仕舞えば現代人には薄っぺらでしょう。しかし、彼女と共に10年を生きた観客は、ここでもまた彼女とともに慟哭するのです。

 

なぜこれを観ないのか

 

今回は敢えて短めに終えておきます。友人に長すぎると指摘されたので笑

ただ最後に、もし東京に住んでいて、映画通を気取るなら。そうでなくても学問を志したり、芸術を愛する心を持つのなら、この映画を観ないというのは一つの大きな損失だと考えていただいて結構です。何を観るのも何を観ないのも、映画ファンなら自分で決めてしかるべきでしょうが、私は一人の映画狂いとしていここに声を大にして言います。この映画だけは観たほうがいい。