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Kittyは映画が大キライ

私の私による私のための映画レビュー

『PK』/『きっとうまくいく』 どうしちゃったのインド?

好きな映画 映画館で観た映画 雑記

『PK』(原題 : PK)

ラージクマール・ヒラー二監督

2014年、インド

 

『きっとうまくいく』(原題 : 3 Idiots)

ラージクマール・ヒラー二監督

2009年、インド

 

ちょっとした偶然から

 

映画好きの母に勧められたものの、私は『きっとうまくいく』の録画ディスクを放置していました。完全に食わず嫌いですが、なんとなくボリウッドに苦手意識があったので。ところが先週の金曜日、たまたまU-NEXTで見かけたので思い立って鑑賞してみれば、まあこれが面白いこと。思わず朝の四時までぶっ通しで見てしまいました。すっかり満足してTwitterなどいじっていると、その日がまさに同監督・同主演の『PK』公開日だというではないですか。予定を全部キャンセルし、仮眠をとって新宿のシネマカリテに駆けつけたのです。

というわけで今日は私がインドに出会った話です。

 

インド映画の偏見

 

インド映画といえば踊りですよね。愛の歌を交わす主人公とヒロインのうしろに、どこからともなく謎のオッサンが笑笑と湧き出てきて、キレッキレのダンスを披露して去っていく。というのがステレオタイプでしょうか。ある意味シュールです。

でもこれがシュールに見えるのは踊っているのがインド人(と一口に言っても様々な人種と宗教があるわけですが)で、音楽と振り付けが彼らの文化のみのだからじゃないでしょうか。だってジーン・ケリーだってぶっちゃけシュールじゃん。でも2枚目の白人が西洋音楽でタップダンスするのは素敵な傑作になる。『ヘアスプレー』(アダム・シャンクマン監督、2007年)のジョン・トラヴォルタなんてもはやジョークですし(あれはむしろメタ・フィクション的な、あるいは再起的なパロディですが)。

小太りで浅黒いオッサンがいい笑顔で"いかにも"な振り付けで踊っている。歌の歌詞も宗教的だったり、我々の知らない文化的な背景がうかがえたりでちっとも腑に落ちない。だからシュールという語に押し込めてしまっては勿体無い。ミュージカルじゃないですか。演劇ってのは本来滑稽なものです。インドだけじゃない。

ただ、なんでインドではミュージカルだけがあそこまで発達したのか、という疑問はあります。私が全く観ていないだけで、きっとそこには独自の方法論まで成立しているはずですし、ジャンル映画になっているでしょう。でもなんで?映画後進国としてスタートした日本やアメリカや韓国や中国でもミュージカルにはならなかった。大衆は時代劇と西部劇とカンフーでしょう?(ある種に"アメリカ映画"の成立は結局日本映画の終焉より遅いから、いくら黄金時代が甘美でも私はアメリカは後発組だと思うし、今でもそうじゃないでしょうか)。

なんでインドだけミュージカル?多様な宗教・文化背景の観客には音楽と踊りでコーディングする必要があったんでしょうか?もっと勉強しないとですね。

 

思ったより全然"普通"だった

 

で、今回のラージクマール・ヒラー二監督とアーミル・カーンですが、全然普通なんです。どうしたの?というくらいアメリカ的・ヨーロッパ的でした。「あ、これ観たことある!」という感じ。要するに、演技から脚本、キャメラ、主題に至るまでが使い古されたものです。もちろん現代インドのあり方が反映されてるんでしょうが、そんなのは私たちはもう観てきたわけで、個人の解放も競争社会への反発ももう知ってる。喜劇的で記号的な演技なんかも経験済みです。異邦人を投入して現代社会を風刺するというやり方も、言って仕舞えば18世紀からずっと使い古されてきました。

面白いのは確かです。最高です。でもなんでこれが今のインドで撮られて、それはともかくこんなに絶賛されるんですか?我々が知ってる映画に"インドらしさ"のスパイスをかけただけくらいに思っていませんか?美味しいのはスパイスですか?この2作は疑いようもなく優れています。しっかりとした方法論を持ち、独自の面白さを追求しています。でもそれを評価する我々はなんでこれをちやほやしているんですか?

インド映画が成熟したとか、インドという国が発展を遂げてきたとか、そんなのはオリエンタリズムでしょう。禅やらシハールをありがたがる感性と同じです。インドとその映画に対して、秘境のロマンを押し付け、そのくせ全く理解していない。だから自分たちの映画と同じものを、ガワだけ変えてあればインド万歳になる。そうじゃないでしょう。インドじゃなくて映画を観ましょうよ。19世紀の知識人じゃないんですから。

たぶんオリエンタリズムの感性でインド映画を観るなら、『スラムドッグ・ミリオネア』(ダニー・ボイル監督、2008年)の最後はカタストロフィです。あれはそもそもダニー・ボイルがイギリス人ですし、入れても入れなくても悲惨な結果になったには違いないのですが。つまり、映画をヨーロッパとアメリカの特権としてみるなら、あのダンスはインド映画がせっかく「進歩」する兆しを台無しにしているわけですし、インド映画としてみるなら、最後に申し訳程度に挟んでご機嫌取りかということになるでしょう。

ジャンル映画には、その国の映画には、それなりに必然性があるわけで、映画を見る文脈は一つではないはずだと思います。インドが自分たちと同じような映画を撮れるようになった?クソくらえです。