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Kittyは映画が大キライ

私の私による私のための映画レビュー

『天才スピヴェット』 映画における"event"とは

 『天才スピヴェット』(原題 : L'extravagant voyage du jeune et prodigieux T.S. Spivet)

ジャン=ピエール・ジュネ監督

2013年

 

遊び心に溢れた愛らしい映像

 

『アメリ』(2001年)の監督が撮ったロード・ムービー。渋谷でかかっていたときに観損ねたのが、Netflixに入ったので早速。

『アメリ』と同様に、ジャン=ピエール・ジュネらしいユーモアと遊び心に溢れた作品です。T.S.の目に映る世界がウィットに富んだアニメーションとダイナミックなキャメラによって生き生きと描き出されています。特に冒頭の兄弟のシーンは素晴らしい。活発で、洞察力に富んだT.S.という主人公と彼の家族をくっきりと描き出していました。観ていて楽しい映画でした。可愛らしいというそれだけでも観てよかったと思えます。

この映画について、 当初の予定では、ロード・ムービーの一つの主要な類型である「旅とは行って帰ること」と作中で執拗に強調される「円運動」に注目したテマティスムを展開する予定でした。ですが、ここではあえて心理学的な考察をしたいと思います。この映画は認知心理学にとって極めて示唆的である上、私が見出したこの映画の"映画の歓び"を語るためには映画心理学の最近の研究を避けては通れないからです。それではここで一旦脇道に逸れて、少しばかり科学のお話をいたしましょう。

 

映画における"event"

 

現実世界と同様、映画の中でも様々な"event"が起きます。ご飯を食べる、会話をするといった人の運動や、車が走る水がこぼれるといった出来事に至るまで、様々な"event"があることでしょう。ここでいう"event"とは、「時間が経つにつれて変化させられる環境の、構成要素を描写する」ものです(Gibson, 1979)。映画で"event"について、例えばリュミエール兄弟は"風が吹く"という"event"をキャメラに捉えたことで、映画の本質を指し示したとも言われています。風が吹くというのは時間が存在して初めて成立する現象ですし、この現象によって木が揺れたりスカートの裾が翻ったりといった環境の変化が生じます。しかし映画というのは、所詮は平面上の光に過ぎないわけですから、映画の"event"と現実の世界で起きるそれとの間には大きな隔たりがあります。Schwanという心理学者は両者の違いについて以下のように述べています。

 

"event"は複数の"activity"の連鎖、ともすればネットワークによって構成され、"activity"は複雑な時空間的軌道から形作られる。これこそが、日々の生活の中、連続的かつ完璧な方法で"event"の連鎖を観察することが、原則というよりもむしろ例外である理由である。(中略)(訳連続的かつ完璧な"event"の観察とは)対照的に、人間は色々な理由から"event"の展開をそうした(理想的な)やり方で行うことは通常できない。観察者の注意が時間経過で阻害されたり、適切な位置から観察していなかったり、人の動きの一部が隠れていたり、運動の軌道を物理的、社会的な理由で追跡できなかったり、あるいは、"event"の発生が前もって予測できなかったり、複数の"event"の連鎖が同時に別の場所で別の人によって生じていたりするかもしれない。

 

(Schwan, S. (2013). "The Arts of Simplifying Events"、拙訳)

 

要は現実では人間の視覚認知は連続的ですし、定点=自分の眼球の位置からしか"event"を観察できません。しかし映画は無数のショット=静止画から構成されていて、キャメラの視点は複数、つまり"event"を複数の視点から観察できます。現実世界で実現できない、"理想的な"観察さえ可能なのですカットバックなんかがいい例でしょう。"2人の人物が会話している"という出来事は、引きの視点からその2人を映せば説明できます。現実世界での我々の視点はこちらです。しかし、「一方の顔を映した後、もう一方の顔を映す」という手法によって、同じ"event"はより生き生きと、わかりやすく表現されます。

これはほんの一例にすぎませんが、映画の方法論というのは"event"をどんな視点で撮影するかの方法論でもあります。主観と客観を自在に切り替え、あるいは主観にリアリティを持たせたり、目に見えない「感情」を描いたり。グリフィスの遺産は心理学者にとっても極めて示唆的です。

 

『天才スピヴェット』に話を戻しましょう。この映画では、"event"の大部分がT.S.の主観的な視点で描かれていると言えるでしょう。一つには、ナレーションが彼のモノローグですから、彼の目にどんな世界が写っているのかが言語情報で説明されます。さらに、キャメラの挙動も適切です。極めてわかりやすく、画面に映っているものがT.S.の視野上のものだと示されています。映像技術の具体的な細部についてはここでは差し控えますが。私は映像の専門家ではないので。

要するに、我々観客は彼の立場でそれぞれの"event"を認知しているのです。単純で安い言い方をすれば"彼に感情移入している"。それを実現するのが、適切に計算されたナレーションとキャメラと視覚効果なのです。

 

まとめー共感の歓びー

 

T.S.の目を通して見たとき、我々は世界が驚くほど新鮮で、豊かであることに気づくでしょう。同時に、彼が抱える孤独や苦しみも生々しくのしかかってきます。こうした"共感"こそが、この映画の"映画の歓び"ではないでしょうか。同時にこれこそあらゆる映画が目指す、映画の奥義の一つではないかと私は考えます。。キャメラ、音楽、仕草といったあらゆる技術は、スクリーンの向こうにある別の身体と、今ここにある自分の身体を重ねるためにあるのだと、それこそが全ての映画に共通する"映画の歓び"なのだ思うのです。

 

いろいろ書いてはみたのですが、いつにも増してわかりづらい文章になってしまいました。その他の知見にl関しては機会を改めて書くこととします。

 

参考文献

 

 Shimamura, A. P. (Editor) (2013). Psychocinematics: Exploring Cognition at the Movies. New York: Oxford University Press.