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Kittyは映画が大キライ

私の私による私のための映画レビュー

『柘榴坂の仇討』 見えないものを、見える形に

好きな映画 映画館で観た映画

『柘榴坂の仇討』

若松節朗監督

2014年、日本

 

中村吉右衛門観たさに

 

もう2年近く前の作品になるんですか。横浜ブルク13で観たのをよく覚えています。普段は邦画をあまり観ないのですが、この作品は敬愛する中村吉右衛門が出演しているということで、喜び勇んで観に行きました。大好きな作品なので、Netflixに入ってくれてとても嬉しいです。

で、中村吉右衛門なんですが、これがもう素晴らしい。空間全体に満ち満ちていくかのような発声が、映画であってもビリビリと響きます。これはイタリアオペラのベルカント唱法に近い発声ですね。決して口先や喉元から滑り落ちた声ではなく、肚の底から響きがせり上がって来る声です。けして張り上げるわけではないのに間違いなく相手に向かっていく、竹内敏晴が言うところの「小さくくぐもる声」(竹内敏晴『思想する「からだ」』2001年、晶文社)でしょう。さらに、立ち姿・座り姿も圧倒的です。ただその場に立っているだけでも他を圧する存在感を放っています。イーストウッドはアメリカのBravoが放映する"Inside the Actors Studio"(2003年)でドン・シーゲルの言葉として、「最も難しいのは何もしないことだ」と述べていますが、何もせず、つまりは表面的な表現によらずに印象を与えるという最高レベルの演技力です。

『柘榴坂の仇討』では吉右衛門の出番はあまり多くありません。主演はあくまでも、中井貴一阿部寛です。しかし、この映画の最大の魅力の一つが、中村吉右衛門という不世出の役者であることは間違いないでしょう。

 

平成に明治を描く難しさ

 

この映画は時代劇なのですが、話の軸として"江戸↔︎明治"の対立があります。古い感性と新しい感性の間で揺れ動く人々の内面が繊細に描き出されています。その巧みな表現がこの映画の"映画の歓び"でしょう。

ところで、時代劇に限らず、現代とは異なる社会を描くときにはどうしても現代的な感性に基づかざるを得ません。作り手も受けても現代人であり、昔の人とは異なる感性しか持たないからです。その上で、できる限り当時の人々の捉え方に近づいていこうとするのが表象文化論の基本的な考え方だと言えるでしょう。例として、『ハムレット』を考えてみます。

20世紀前半まで、ハムレット王子という人物は優柔不断で情けない人物として描写されることがほとんどでした。俗に言う、"青白いハムレット"です。この背景にあるのはロマン派詩人たちの"Hamlet is me."という感性です。彼らは傷つきやすい自分たちとハムレットを重ね合わせて解釈していました。この解釈が間違いであるとは言い切れません。デリダのようなポスト・モダニズムの立場から言えば、読者(観客)には"テクストを読む快楽"がありますから、ハムレットをどのように解釈してもそれは自由なのです。しかし、それを良しとしない、できるだけ当時者の感性を推測しながら解釈していこうとするのが表象文化論です。表象文化論の研究者たちは、ハムレットがむしろ、宗教改革期における哲学的英雄である可能性を提唱しました。複数の版を比較し、当時の宗教観、俗語はおろか猥談にいたるまでも徹底して調べ上げた結果、ハムレットの独白が含む宗教観が明らかになってきたのです。ハムレットについてはローレンス・オリヴィエメル・ギブソンが好対照です。極めて典型的なロマン派の解釈を行ったオリヴィエに対し、メル・ギブソンとゼフィレリは徹底してテキストを尊重し、時代設定にもこだわる、表象文化論的なアプローチで作られています。

時代劇にも同じことがいえるでしょう。我々のうちの誰一人として、江戸時代の感性では生きていません。それでは『柘榴坂の仇討』はどのように江戸から明治の移行期に生きた人たちの内面を描写を実現しているのか。

それには時代劇の方法論が大きな役割を果たしていると考えます。すり足による移動、背筋を伸ばして腰を折るお辞儀といった細かい仕草が極めて江戸的です。時代劇とそこで生きてきた歌舞伎役者たちが気づきあげた方法の集大成が活かされています。江戸的な感性というのは、それ自体は目に見えないわけですが、江戸的な所作として視覚的に表現しているのです。

これも見えないものを見える形で表現するという映画の奥義がこの作品にも息づいているということですね。

 

残念すぎるクライマックス

 

さて。この作品は江戸時代と明治時代の感性の違いと、それから生じる葛藤を見事に視覚化した傑作であります。しかし、心の底から残念なのはクライマックスの決闘からその後の顛末に至るまでのキャメラワークです。ここがあまりに稚拙でした。

何が酷いかというと、やたらと説明的だったのです。セリフがやたらに多く、わざわざ言語化するまでもないことまでベラベラとしゃべくり倒す。キャメラもいちいち顔のアップを挟んでリズムが悪い。説明的なキャメラというのはほとんど罪悪です。不必要なことをいちいち丁寧に描写するというのは邦画にはよくあることですが、やっぱり酷いもんです。俳優も監督も人材不足、不出来な作品に囲まれていては業界全体のレベルが向上しないのも仕方ないんでしょうか。

 

参考文献

 

高橋康也河合祥一郎編注、「〈大修館シェイクスピア双書〉ハムレット」、2001、大修館書店