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Kittyは映画が大キライ

私の私による私のための映画レビュー

【ネタバレあり】『ぼくのエリ 200歳の少女』 「夜」の感性

好きな映画

ぼくのエリ 200歳の少女』(原題 : Låt den rätte komma in)
トーマス・アルフレッドソン監督

2008年、スウェーデン

 

裏切りのサーカス』(2011年)のアルフレッドソン監督によるホラーの傑作です。

この映画の魅力と介在する諸問題について語るにはどうしても核心に触れなくてはなりません。トリックの類ではありませんし、予め知っていたとして魅力を損ねるとも思いませんが、一応は断っておきます。ご注意ください。

 

ネタバレのないあらすじ

 

ストックホルム郊外。母子家庭の少年・オスカーは、酷いいじめを受けていた。犯罪や凶器に惹かれ、いじめられっ子への復讐を妄想する歪んだ日々を送るなか、オスカーは謎めいた少女・エリと出会い惹かれていく。しかし、エリには(原題からしてすでにバレバレな)秘密があった…

 

 

下劣な邦題と修正

 

この傑作が日本で公開されるにあたって行なわれた下劣な行為の詳細は、他の無数のブログに詳しいのでここでは省略します。簡潔に要点を言うと、エリは去勢された元少年であるのに、邦題で少女と断定したばかりか、局部が映るショットで修正を入れて去勢痕を隠したのです。

これは言語道断の行為でしょう。エリというキャラクターが持つ複雑で繊細な魅力を全て台無しにしただけでなく、まるで少年が恋するのは少女でなくてははならないと決めつけているかのようです。ステレオタイプなセクシャリティの押し付けに他ならない。性器やその他の性的な要素を、ヒステリックに隠そうとする行いこそ下品で恥ずかしいと理解していないのでしょうか。

 

 それでは不愉快な話はここまでにして、この映画が傑作たる所以を考えてみます。

 

「見えない」ものを描く

 

この映画が傑出しているのは、ずばり「夜」の感覚でしょう。ここで「夜」というのは目では捉えられない世界という意味です。

心理学の話をしましょう。

映画というメディアはそもそも目に見えるもの、心理学的な言い方では「視覚刺激」を扱います。またトーキー映画以降は、効果音、BGM、そして音声といった、「聴覚刺激」も加わりました。視覚と聴覚の二次元で定義されるのが映画の世界です。

しかし、映画はその二次元の情報によって、より複雑な多次元の世界を表現できます。例えば、リュミエール兄弟は「風」を撮ることに成功したと言います。風それ自体は目に見えませんが、この木の葉の揺らぎををみれば風が吹いていることがわかりますし、一旦そうとわかれば風が肌に触れるときの触覚の情報や、ともすれば風が運ぶ花の香りの嗅覚情報も観客に届くでしょう。つまり、視覚情報のみによって、触覚と嗅覚情報を表現しているのです。映画というメディアの無限の可能性はここにあります。映画は視覚と聴覚の身を利用して、現実世界の全ての感覚を表現しうるのです。

話を『ぼくのエリ』に戻しましょう。

先ほど、この映画は目に見えない世界の感覚によって優れていると述べました。例えば、エリとオスカーが同じベッドで眠るシーンでは、われわれはオスカーが感じるエリの肌の質感や息遣い、匂いを感じることができます。これらは目に見えない情報ですが、適切な方法論に従って撮られたことでくっきりと描き出されています。顔、手、部屋の中と完璧タイミングでショットが構成され、セリフや仕草も計算され尽くしていることが見て取れます。また、目に見えないものというのは何も他感覚の情報だけではありません。人と人との距離感や、感情(心理学では"情動"とよび、相手の情動を理解することを"情動認知"と呼びます)といった情報も、適切なショット、演技、セリフや音楽によって表現されます。ベッドのシーンでの2人の初々しい交流は、この映画で最も魅力的なシーンの一つでしょう。さらに言えば、エリが空を飛ぶシーンをあえて画面の枠外に追いやるなど、あえて見せない演出も巧みです。モデストな視覚表現によって、繊細で豊かな表現を達成しています。

エリという存在は複雑で捉えがたく、だからこそ魅力的なのですがそれはまさしく「夜」の魅力そのものでしょう。暗く、妖しい闇夜にこそ、オスカーもわれわれも強く惹かれるのです。

 

今回は心理学の知見を発想の出発点としながら、表象文化論のアイデアも取り入れてみました。必ずしも科学的ではない議論になっていますが、これも心理学の難しいところです。