Kittyは映画が大キライ

私の私による私のための映画レビュー

【試写会】『ある天文学者の恋文』 人間の最も豊かな営み

『ある天文学者の恋文』(原題 : Correspondence)

ジュゼッペ・トルナトーレ監督

2015年

 

幸運なことに試写会に当選したので、一足早く観ることができました。ありがたいことです。

大変素晴らしい作品でしたので、たまにはあらすじも添えてみます。若干ネタバレと言えなくもない部分がありますのでご注意を。

 

〈あらすじ〉✳︎若干のネタバレ✳︎

主人公は大学で天文学の博士号を目指す女性、エイミー(オルガ・キュリレンコ)。エイミーは高明な天文学者のエド(ジェレミー・アイアンズ)とこっそり交際しています。深く愛し合う2人でしたが、ある日突然エイミーのもとにエドの訃報が。しかし、エイミーのもとにはなぜか、死んだはずのエドからのメールや手紙が届き続けます。まるでエドが生きているかのように、近くで見守ってくれているかのように、完璧なタイミングで届き続ける手紙やプレゼント。それは自分の死後もエイミーを孤独にしないため、病床のエドが用意したサプライズだったのです。超新星の光が遅れて届くように、時間と空間を超えて語り合う2人。エドへの思いや自分の過去と向き合ったエイミーに、最後のメッセージが届きます。 〈以上あらすじ〉

 

やたらと「謎」を強調した宣伝がされていますが、実際には謎なんてものはハナからありません。ほとんどの時間は死んだ恋人から届く手紙に向き合う主人公の心の機微に割かれています。過ぎ去った愛しい人の言葉と、今ここにいる自分が交差するおかしさと豊かさ。いないのに、いる。いるのに、いない。主人公の微妙な内面を、オルガ・キュリレンコは巧みに演じています。音楽もそれを引き立たせていて、優しく寄り添うような美しい楽曲でした。

 

この作品の"映画の歓び"は「語ること(narration)」の豊かさでしょうか。遅れて届くビデオレターに対し、主人公は届かないと知りながらも語り返していきます。すると不思議なことに、対話が成立してしまう。それは時間軸を超越した自己の規定でありえます。

ナラティブ・アプローチというものがあるように、「語ること」は極めて豊かな営みです。人間の文化の本質の一つであり、だからこそ映画や演劇はいつも問題にしてきた。『ハムレット』で、ハムレットは独白によって自己を規定し続けました。ガートルードはその証言によって事実を超えた真実を提示しました。『アブラハム渓谷』(1993年、マノエル・デ・オリヴェイラ)では、エマの独白は渓谷を超えてポルトガルに重なり、スクリーンのこちらに届きました。『ハッピーアワー』(2015年)では、対話によって移り変わる人間の関係性が身体の動作として映し出されました。「語ること」とは単なる心情の吐露、情報の伝達ではありません。自己のあり方と世界のあり方を規定し、更新する、人の為す最も豊かな営みなのです。そもそも映画や演劇自体が、この世界のあり方を語る一つの手段でしょう。

この映画ではそれまでのどんな作品ともちがう「語ること」が描かれます。なにせ一方はもう死んでいるのですから。その語りは明白に「過去」です。しかし、語り返すことによって「過去」と「現在」は繋がります。これは、時間軸、つまりは因果性から解き放たれた対話をめぐる映画なのです。それは原題の"Correspondence"からも明らかでしょう。直訳すれば「文通」といったところでしょうが、それ以上に、決して一方通行ではない、相手に返し、また返されるという、行ったり来たりのニュアンスがあります。

その上、作中でも"共時性"についての言及がありました。"因果性"とは、前後の関係があること、原因と結果があることです。我々は普段、因果性の世界を生きています。一方の共時性とは、同時であること。複数の事柄が同時に存在、発生していることを言います。これは"偶然"とは決定的に異なる概念です。なぜなら偶然とは、因果性を前提に考えたとき、結果に対して妥当な原因が存在しないことだからです。エドとエミリーの語りは間違いなく同時に存在しています。だから、共時的に対話が成立する。

 

映画の魅力を喧伝するはずが、いつも通りの雑文になってしまいました。これでは試写会に行かせていただいた意味があったものやら。しかも非科学的な哲学談義に成り果てています。

ともあれ『ある天文学者の恋文』はとても面白い映画です。映像も音楽もきれいで、俳優の演技も素晴らしく、何より感動的です。こんな分かりにくい感想を書いておいてなんですが、内容は分かりやすく、誰にでも楽しめる作品だと思います。ぜひ大切な方と。