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Kittyは映画が大キライ

私の私による私のための映画レビュー

『我らが背きし者』 かくも狂おしきスパイ映画

『我らが背きし者』(原題 : Our Kind of Traitor)

スザンナ・ホワイト監督

2016年、イギリス

 

粗々ですが、また考え込んでお蔵入りする前にとりあえずまとめてしまいます。まさかここまで面白いとは。

 

王道のようで邪道、邪道のようで王道

 

原作はル・カレですから当然スパイ映画です。ロシアン・マフィアのリーク情報を巡る陰謀に巻き込まれてしまった冴えない大学教授(ユアン・マクレガー)のお話です。ひょんな事からヤバイ話に巻き込まれて…っていうのはスパイ物、サスペンス映画ではよくあるパターンですね。サスペンス映画の批評理論の詳細はまあおいといて。あらすじだけで言えば特に目立ってもいません。マイケル・マンの『コラテラル』(2004)なんかの方が派手かも。ただこの作品は勝るとも劣らない傑作なのです。

まず、発泡シーンが2回くらい?しかありません。それどころかロクなアクションもないし、人もそんなに死なない。『裏切りのサーカス』みたいなウソや計略の連続というわけでもなく、誰が味方で誰が敵か、悪い陰謀の全貌までもが割と早い段階で出尽くします。スパイ映画の割に、衝撃の展開も血腥いアクションも欠落しているのです。

それでもこの作品が優れているのはひとえにその繊細な人物描写によるでしょう。観る者を引き込み、共感を引き出す一流のキャメラと、言葉では明確に説明できない人間心理が持つ微妙さを見事に印象付ける俳優たちの演技が素晴らしいのです。スパイ映画は必ずしも、近未来的なガジェットや裏の裏をかく奇抜さによって成り立つのではないと教えてくれます。まったく、ダニエル・クレイグがボンドに収まってからこのかた、スパイ映画はどんどん面白くなってきましたね。多様化といってもいいでしょう。いろんなやり方でスリルとサスペンスを演出できるようになってきています。

 

鏡が映す内面

 

さて、この作品の優れた内面描写についてもう少し。

スパイ映画ですから、そうはいっても誰を信じたらいいのかわかりません。みんながみんな嘘を言ってるかもしれないわけですし、だからこそ主人公も疑わしい。お願いされたからといってマフィアのおつかいをしてあげるだなんてよっぽどのお人好しか、あるいは何か良からぬことを企んでいるかのどちらかにしか見えないはずでしょう。しかしこの映画では鏡に対する徹底したこだわりが、そんな信用ならない登場人物たちに説得力のある共感性を与えています。

相手が本当のことを言っているのかどうか、というのはなかなか現実でも難しいところです。相手の顔や仕草から何かを読み取るのは難しい。この映画でも、窓や柵の外から覗き込むようなアングルのショットが多用され、理解しがたい主人公たちの言動や、それに苛立つ他の人物に様子が描かれます。特徴的なキャメラです。

さらに印象深いのは、執拗なまでに繰り返される鏡です。鏡や窓や車のボディーに反射する顔が頻繁に登場しますが、これはとても重要なポイントでしょう。なぜなら複雑なそれぞれの登場人物の内面はここにこそ表出するからです。とんでもないことに巻き込まれ、さらに深入りしようとする主人公。そんな彼に呆れながらもなぜか協力する妻(ナオミ・ハリス)。会ったばかりの赤の他人に家族の命を託すマフィア(ステラン・スカルズガルド)に、裏切り者への逆襲を図りながらもマフィアの家族に同情しているらしきスパイ(ダミアン・ルイス)。彼らはいずれも理解しがたい、非合理な感情を抱えていて、それが故にお互いを信用できないはずです。観客もおなじで、彼らは奇怪な存在でしかなく、共感は生まれません。しかし、そんな彼らの姿を鏡を通して一旦意味を解体していくことで、複雑怪奇な内面が極めて強い説得力を持ってこちらに伝わってきます。

Rotten Tomatoes には「登場人物に共感できない」というのは批評も寄せられていましたが、見当違いも甚だしい。むしろ強い共感性を持った映画です。こんなに面白い映画、他になかなかないでしょう。一見の価値ありです。

『天才スピヴェット』 映画における"event"とは

 『天才スピヴェット』(原題 : L'extravagant voyage du jeune et prodigieux T.S. Spivet)

ジャン=ピエール・ジュネ監督

2013年

 

遊び心に溢れた愛らしい映像

 

『アメリ』(2001年)の監督が撮ったロード・ムービー。渋谷でかかっていたときに観損ねたのが、Netflixに入ったので早速。

『アメリ』と同様に、ジャン=ピエール・ジュネらしいユーモアと遊び心に溢れた作品です。T.S.の目に映る世界がウィットに富んだアニメーションとダイナミックなキャメラによって生き生きと描き出されています。特に冒頭の兄弟のシーンは素晴らしい。活発で、洞察力に富んだT.S.という主人公と彼の家族をくっきりと描き出していました。観ていて楽しい映画でした。可愛らしいというそれだけでも観てよかったと思えます。

この映画について、 当初の予定では、ロード・ムービーの一つの主要な類型である「旅とは行って帰ること」と作中で執拗に強調される「円運動」に注目したテマティスムを展開する予定でした。ですが、ここではあえて心理学的な考察をしたいと思います。この映画は認知心理学にとって極めて示唆的である上、私が見出したこの映画の"映画の歓び"を語るためには映画心理学の最近の研究を避けては通れないからです。それではここで一旦脇道に逸れて、少しばかり科学のお話をいたしましょう。

 

映画における"event"

 

現実世界と同様、映画の中でも様々な"event"が起きます。ご飯を食べる、会話をするといった人の運動や、車が走る水がこぼれるといった出来事に至るまで、様々な"event"があることでしょう。ここでいう"event"とは、「時間が経つにつれて変化させられる環境の、構成要素を描写する」ものです(Gibson, 1979)。映画で"event"について、例えばリュミエール兄弟は"風が吹く"という"event"をキャメラに捉えたことで、映画の本質を指し示したとも言われています。風が吹くというのは時間が存在して初めて成立する現象ですし、この現象によって木が揺れたりスカートの裾が翻ったりといった環境の変化が生じます。しかし映画というのは、所詮は平面上の光に過ぎないわけですから、映画の"event"と現実の世界で起きるそれとの間には大きな隔たりがあります。Schwanという心理学者は両者の違いについて以下のように述べています。

 

"event"は複数の"activity"の連鎖、ともすればネットワークによって構成され、"activity"は複雑な時空間的軌道から形作られる。これこそが、日々の生活の中、連続的かつ完璧な方法で"event"の連鎖を観察することが、原則というよりもむしろ例外である理由である。(中略)(訳連続的かつ完璧な"event"の観察とは)対照的に、人間は色々な理由から"event"の展開をそうした(理想的な)やり方で行うことは通常できない。観察者の注意が時間経過で阻害されたり、適切な位置から観察していなかったり、人の動きの一部が隠れていたり、運動の軌道を物理的、社会的な理由で追跡できなかったり、あるいは、"event"の発生が前もって予測できなかったり、複数の"event"の連鎖が同時に別の場所で別の人によって生じていたりするかもしれない。

 

(Schwan, S. (2013). "The Arts of Simplifying Events"、拙訳)

 

要は現実では人間の視覚認知は連続的ですし、定点=自分の眼球の位置からしか"event"を観察できません。しかし映画は無数のショット=静止画から構成されていて、キャメラの視点は複数、つまり"event"を複数の視点から観察できます。現実世界で実現できない、"理想的な"観察さえ可能なのですカットバックなんかがいい例でしょう。"2人の人物が会話している"という出来事は、引きの視点からその2人を映せば説明できます。現実世界での我々の視点はこちらです。しかし、「一方の顔を映した後、もう一方の顔を映す」という手法によって、同じ"event"はより生き生きと、わかりやすく表現されます。

これはほんの一例にすぎませんが、映画の方法論というのは"event"をどんな視点で撮影するかの方法論でもあります。主観と客観を自在に切り替え、あるいは主観にリアリティを持たせたり、目に見えない「感情」を描いたり。グリフィスの遺産は心理学者にとっても極めて示唆的です。

 

『天才スピヴェット』に話を戻しましょう。この映画では、"event"の大部分がT.S.の主観的な視点で描かれていると言えるでしょう。一つには、ナレーションが彼のモノローグですから、彼の目にどんな世界が写っているのかが言語情報で説明されます。さらに、キャメラの挙動も適切です。極めてわかりやすく、画面に映っているものがT.S.の視野上のものだと示されています。映像技術の具体的な細部についてはここでは差し控えますが。私は映像の専門家ではないので。

要するに、我々観客は彼の立場でそれぞれの"event"を認知しているのです。単純で安い言い方をすれば"彼に感情移入している"。それを実現するのが、適切に計算されたナレーションとキャメラと視覚効果なのです。

 

まとめー共感の歓びー

 

T.S.の目を通して見たとき、我々は世界が驚くほど新鮮で、豊かであることに気づくでしょう。同時に、彼が抱える孤独や苦しみも生々しくのしかかってきます。こうした"共感"こそが、この映画の"映画の歓び"ではないでしょうか。同時にこれこそあらゆる映画が目指す、映画の奥義の一つではないかと私は考えます。。キャメラ、音楽、仕草といったあらゆる技術は、スクリーンの向こうにある別の身体と、今ここにある自分の身体を重ねるためにあるのだと、それこそが全ての映画に共通する"映画の歓び"なのだ思うのです。

 

いろいろ書いてはみたのですが、いつにも増してわかりづらい文章になってしまいました。その他の知見にl関しては機会を改めて書くこととします。

 

参考文献

 

 Shimamura, A. P. (Editor) (2013). Psychocinematics: Exploring Cognition at the Movies. New York: Oxford University Press. 

 

『高慢と偏見とゾンビ』 心の底から楽しめました

高慢と偏見とゾンビ』

バー・スティアーズ監督

2016年

 

不朽の名作、感染。

 

(日本版ポスターより)

 

ということで、最初は完全にイロモノ、B級映画だろうと思って観に行ったんですが完全に足元をすくわれました。そりゃあ、粗は目立つし、展開も詰め込み過ぎのしっちゃかめっちゃかだったけど。それでもやっぱり面白かったです。

 

魅力その①:(わりと)スタイリッシュなアクション

 

まずアクションがカッコ良かった。正直『スーサイド・スクワッド』(2016年、デヴィッド・エアー監督)より楽しめました。確かにダーシー(サム・ライリー)の日本刀は変だったし、ウィカム(ジャック・ヒューストン)はサーベル握りしめてたけど!でも全体としてアクションがよかったから、ストーリーが意味不明で掘り下げが甘くてもしっかり観せてくれました。特によかったのが舞踏会のシーン。ゾンビが攻めてくるんですが、みんなが逃げてくるほうに向かっていく主人公姉妹。ゾンビの群れに飛びかかったかと思うと、千切っては投げ、千切っては投げの大立ち回り。主人公・エリザベス(リリー・ジェームズ)を中心に、五人のドレス姿の女性が矢じりの陣形で、血しぶきの中を画面奥からを向かってきます。ここだけ切り抜けばA級映画です。

このシーンに限らず、エリザベスが魅力的ですね。わりと自分でいっちゃう。みんなまとめてぶっ飛ばしちゃう。ジェンダー云々を抜きにして、こういう女性は素敵ですね。特にゾンビ映画補正でハジけてるとなお良いです。リリー・ジェームズもいい演技でした。ていうかゾンビ映画のくせにみんなそこそこの演技のしてたから素晴らしい。

 

魅力その②:(そこそこの)原作理解

 

オースティンの原作では、ダーシーのことを高慢で偏見に満ちた人だと思っていたエリザベスが、実は自分こそダーシーに対して高慢と偏見をもって接していたことに気づく、というのが一つの重要な流れです。そしてその過程にある事件や対話がこの話の焦点な訳ですが、以外にも『高慢と偏見とゾンビ』もそこはしっかり抑えているのです。

姉妹が結婚観とダーシーの評価を口論する場面と、エリザベスがダーシーに感情をぶつける場面。これはどちらも原作の重要な場面何ですが、見事にカンフーに置き換わっています。どういうことかと言いますと、原作で重要だった会話の代わりに、エリザベスたちの内面の機微は格闘によって表現されているのです。ダーシーに対する怒りや不快感、姉を冷やかす姉妹の愛らしい意地悪といった要素をカンフーの形にして可視化しています。これは案外バカにできないことでしょう。古典を斬新な解釈で描きなおした意欲的な取り組みといっても過言ではありません。

 

魅力その③:(常識的な範囲の)スプラッター要素

 

やっぱりゾンビですからね!全体的に控えめではありますが、それでもしっかりグロいです。ゴア描写は映画の華ですよ!クライマックスのゾンビの大群もいいですね。丘からゾンビの群れが現れて、もう画面の端から端までゾンビ。最高。こういうのが欲しかった。

 

最高のデートムービー

 

とんでも展開にはツッコミつつ、アクションとゾンビを楽しむ。そこにオースティンをベースにした恋愛物語が絡むわけですから、エンタメとロマンスが両立されています。軽く楽しめるし、ゴア描写は控えめだし、これは真剣にデートにオススメです。

いやあ、本当に面白かった。Rotten Tomatoes では散々な言われようでしたが、これはもっと評価されていい作品です!

『17歳のカルテ』 ホラー映画の方法論

17歳のカルテ』(原題 : Girl, Interrupted )

 ジェームズ・マンゴールド監督

1999年

 

現実が揺らぐ前半

この映画の特徴的な演出の一つは、前半部分で多用されるカットバックでしょう。基本的にはウィノーナ・ライダー演じる主人公・スザンナが誰かと対話しているシーンで使われていますが、言うなれば"応用的な"カットバックです。

通常のカットバックは、当然のことながら、同じ空間で向かい合う複数人に対して用いられる手法です。(電話という装置が作り出す「グリフィス的空間」についてはここでは割愛します。)しかしこの映画のカットバックは、現在のスザンナを映し、本来なら対話の相手を映したショットが来るべきところを、全く違う時空間に所属する人物を映してしまいます。つまり、スザンナが過去に対話した相手が突然出て来ます。現在のスザンナ→現在の対話相手→現在のスザンナ→スザンナの記憶の中の対話相手→過去のスザンナ→…というシークエンスです。カットバックによって、画面の中の時間が一気に過去に、スザンナの回想に飛ばされてしまう機能を果たしています。そして、回想から現在に戻る時も同じ仕組みで唐突に戻ります。

極めてわかりやすく、巧妙な演出ですね。薬や不安によって安定感を失ったスザンナの意識がよく現れています。このシークエンスによって、スザンナという少女が現実と向き合えていない、あるいは現実が混乱しているさまが表現されているのです。

 

“宣言する”クライマックス

 

前半で多用された、いわば現実と非現実(この場合は回想)の曖昧さを表現したカットバックですが、中盤にスザンナが病院での生活に馴染むとともに失われていきます。彼女がリサ(アンジェリーナ・ジョリー)らとの生活に居場所を見出していく様が、視覚的にも表現されていると言えるでしょう。それがだんだんと、リサたちのあり方への疑念がうまれ、今度こそ本当に自分のいくべき道を見出し始めます。それが結実するのが、リサとの対決のシーン。凄まじい執念で迫ってくるリサに対し、スザンナは"Because you're already dead, Lisa!"と叩きつけます。ここが素晴らしい。決別と再起の意思が言葉と行動によく現れています。そしてこのセリフの前後で場の空気も一変、いつも強気で圧倒的な存在感を持っていたリサが崩れ落ち、場の支配力が失われる。リサから自立するという力強い、スザンナの宣言です。

このあたりのシークエンスの素晴らしさは、適切な演出によって裏打ちされています。追うリサ、逃げるスザンヌという構図はホラー映画のそれに近いやり方です。ここのやり取りで、恐怖にも似た凄みが生まれます。そして"you're already dead"のセリフは、言葉によってあるべき姿を取り戻す営みです。悪魔祓いや悪夢振り払うときの構図に近いように感じます。

前半の現実と非現実が曖昧になる感覚、そしてクライマックスの逃走し、言葉によってあるべき世界に帰還するというシークエンス、全体としてホラーやファンタジー的な手法だと言えます。ホラーとはあってはならないものとの対決ですし、ファンタジーとは己の内面の克服です。そういう意味では、一人の少女が自分のあるべき姿を取り戻していくというこの映画のストーリーを表現するのにはこれ以上ないやり方でしょう。

 

アンジーの美、ウーピーの雄弁

 

この映画の魅力はこれだけではありません。俳優陣の演技も素晴らしい。

まずは何と言ってもアンジェリーナ・ジョリーです。演技賞を総なめしたらしいですが、本当に味わい深いです。時にハッとするほど美しいかと思えば、クライマックスや冒頭での打ちひしがれた様子。ベッドでの儚げな印象。危うさと繊細さを秘めたリサという人物をしっかりと作り込んでいます。ただ、ウィノーナ・ライダーが言ったように、これだけ強烈なキャラクターなら確かに目立ちますから、賞を取れたのも当然かも。ウィノーナの発言もただのやっかみとは思えないんですよね。彼女もスザンナの内面の変化を丁寧に掴んで良い芝居をしています。

ジャレッド・レトも、脇役ですが流石の実力を発揮していました。まさかの髭面で最初は気づきませんでしたが。

そして何よりウーピー・ゴールドバーグです。要所要所で圧倒的な存在感を示しています。彼女の演技が素晴らしいのは、不自然な表情を作ったり、芝居がかった仕草をすることなく、繊細な人物の内面を印象付けられることです。今回はスザンナを見守り、助言する看護師という役回りですが、スザンナを見つめる目は重厚で、言葉には表せない複雑な万感がこもっていました。"expression"ではなく"impression"による演技。ウーピーはやはり一流です。

 

邦題の謎

 

最後に邦題について。

劇中では一度もスザンナたちの年齢に言及されることはありませんでした。なのに17歳。ウィノーナはアラサーなのに。

これはどうやら当時流行りの「キレる17歳」と結びつけたかったらしいですが、全く下劣ですね。演出やプロットを理解していれば、「キレる17歳」とは対極にあるくらいの映画なのに、センセーショナルな宣伝のためにひどい邦題をつけています。昔からそうですが、日本の映画業界はその辺りどうにかならないもんでしょうか。

【NT Live】『ハード・プロブレム』 心理学は科学か?

『ハード・プロブレム』
トム・ストッパード作
ニコラス・ハイトナー演出
オリヴィア・ヴィノール主演

 

イギリスのナショナル・シアターでの舞台公演を日本の映画館で観るという、ナショナル・シアター・ライブ。いままでは観損ねることが続いてしまったけど、この作品は心理学者の卵として見逃すわけにはいかなかったのです。

というわけで、今日はがっつり心理学の話です。


「ハードプロブレム」ってなに?


「ハードプロブレム」といえば、それは間違いなく「意識のハードプロブレム」、「心脳問題」の一部のことです。現代の心理学が直面しながらも、克服できていない最大の問題でしょう。ウィキペディアにもよくできた項目があるのですが、ここでは私なりに説明します。
「意識のハードプロブレム」を一言で言えば、「意識」ってなに?に尽きます。たとえばここにリンゴが置いてあるとします。リンゴをみて、あなたはきっと「赤い」ということがわかるでしょう。それではリンゴは本当に「赤い」のでしょうか。答えは否です。リンゴは単に「赤く見える」だけであって、リンゴ自体に「赤」という性質があるわけではありません。リンゴに反射する特定の波長の光が、我々に「赤い」という感覚を与えているのです。この主観的な「赤い」という感覚を得ることを、「『赤い』という『クオリア』が生じる」といいます。さらに踏み込めば、私が思う「赤い」とあなたが思う「赤い」は果たして同じクオリアなのでしょうか。ひょっとすると、あなたがおもう「赤色」は私が思う「緑色」かもしれません。受容している光は同じ、それに対するリアクションも同じですが、主観的な意識体験(クオリア)まで同じかどうかは検討しようがないのです。
これが「意識のハードプロブレム」です。クオリアとは何か、どうやって生じているのかという解けない問題のことなのです。

 

結局答えは出ない


そして結局わからないのが「意識のハードプロブレム」です。生理学者や物理学者の中にはこの問題を鼻で笑って、「心とは脳の働きだ」という人もいます。
心が働いている(と思われるとき)、確かに脳も働いています。脳内の血流、電気信号、化学物質の移動を調べたら、それはかなりの部分、心の働きと合致します。心理学的に言えば、「脳と心は強く相関している」わけです。しかし、これでは「意識のハードプロブレム」を解けたことにならないのがわかりいただけるでしょうか。それは一面では、「脳が心を作っている」のか、あるいは「(どこかにある)心が脳を動かしているのか」がわからないということです。因果関係がわからないし、恐らくは実証も出来ません。
クオリアの問題は、このところ何回目かのブームを迎えている人工知能の問題にも広がります。機械が人間の脳よりも優れた計算機である事は確かですが、果たして機械はクオリアを得ているか、機械に意識は生まれるか、という問題があるからです。これも答えの出ない問いです。

 

心理学が目指すこと

意識のハードプロブレムは解けません。意識とは、クオリアとは、心とはなにか。全くわからないというのが現状です。心理学者が心のなんたるかをわからないとはなんとも情けないことですが、仕方ありません。それが事実です。
それでもわかること、わかるかもしれないことがあります。文字を読むときに脳がどう動くのか、どうやったら物覚えが良くなるか、あるいは、なぜ映画は面白いのか。わからないからこそ、一縷の望みに賭けて立ち向かう。ありきたりですが、学問はヒュドラを殺すのに似ています。一つわかれば二つの疑問が新たに生じる。一つだけ違うのは、われわれは半神半人の大英雄ではないということです。学問に道は、ヘラクレスの難業以上に過酷な茨の道かもしれません。
それでも知りたい、学びたいと思うのが科学者です。いつか、何かが、少しでもわかるなら。われわれはそれに自分の全てをベットします。そして今日も世界中で、心理学者が頭を抱えてることでしょう。「心ってなんだ?」、と。

『柘榴坂の仇討』 見えないものを、見える形に

『柘榴坂の仇討』

若松節朗監督

2014年、日本

 

中村吉右衛門観たさに

 

もう2年近く前の作品になるんですか。横浜ブルク13で観たのをよく覚えています。普段は邦画をあまり観ないのですが、この作品は敬愛する中村吉右衛門が出演しているということで、喜び勇んで観に行きました。大好きな作品なので、Netflixに入ってくれてとても嬉しいです。

で、中村吉右衛門なんですが、これがもう素晴らしい。空間全体に満ち満ちていくかのような発声が、映画であってもビリビリと響きます。これはイタリアオペラのベルカント唱法に近い発声ですね。決して口先や喉元から滑り落ちた声ではなく、肚の底から響きがせり上がって来る声です。けして張り上げるわけではないのに間違いなく相手に向かっていく、竹内敏晴が言うところの「小さくくぐもる声」(竹内敏晴『思想する「からだ」』2001年、晶文社)でしょう。さらに、立ち姿・座り姿も圧倒的です。ただその場に立っているだけでも他を圧する存在感を放っています。イーストウッドはアメリカのBravoが放映する"Inside the Actors Studio"(2003年)でドン・シーゲルの言葉として、「最も難しいのは何もしないことだ」と述べていますが、何もせず、つまりは表面的な表現によらずに印象を与えるという最高レベルの演技力です。

『柘榴坂の仇討』では吉右衛門の出番はあまり多くありません。主演はあくまでも、中井貴一阿部寛です。しかし、この映画の最大の魅力の一つが、中村吉右衛門という不世出の役者であることは間違いないでしょう。

 

平成に明治を描く難しさ

 

この映画は時代劇なのですが、話の軸として"江戸↔︎明治"の対立があります。古い感性と新しい感性の間で揺れ動く人々の内面が繊細に描き出されています。その巧みな表現がこの映画の"映画の歓び"でしょう。

ところで、時代劇に限らず、現代とは異なる社会を描くときにはどうしても現代的な感性に基づかざるを得ません。作り手も受けても現代人であり、昔の人とは異なる感性しか持たないからです。その上で、できる限り当時の人々の捉え方に近づいていこうとするのが表象文化論の基本的な考え方だと言えるでしょう。例として、『ハムレット』を考えてみます。

20世紀前半まで、ハムレット王子という人物は優柔不断で情けない人物として描写されることがほとんどでした。俗に言う、"青白いハムレット"です。この背景にあるのはロマン派詩人たちの"Hamlet is me."という感性です。彼らは傷つきやすい自分たちとハムレットを重ね合わせて解釈していました。この解釈が間違いであるとは言い切れません。デリダのようなポスト・モダニズムの立場から言えば、読者(観客)には"テクストを読む快楽"がありますから、ハムレットをどのように解釈してもそれは自由なのです。しかし、それを良しとしない、できるだけ当時者の感性を推測しながら解釈していこうとするのが表象文化論です。表象文化論の研究者たちは、ハムレットがむしろ、宗教改革期における哲学的英雄である可能性を提唱しました。複数の版を比較し、当時の宗教観、俗語はおろか猥談にいたるまでも徹底して調べ上げた結果、ハムレットの独白が含む宗教観が明らかになってきたのです。ハムレットについてはローレンス・オリヴィエメル・ギブソンが好対照です。極めて典型的なロマン派の解釈を行ったオリヴィエに対し、メル・ギブソンとゼフィレリは徹底してテキストを尊重し、時代設定にもこだわる、表象文化論的なアプローチで作られています。

時代劇にも同じことがいえるでしょう。我々のうちの誰一人として、江戸時代の感性では生きていません。それでは『柘榴坂の仇討』はどのように江戸から明治の移行期に生きた人たちの内面を描写を実現しているのか。

それには時代劇の方法論が大きな役割を果たしていると考えます。すり足による移動、背筋を伸ばして腰を折るお辞儀といった細かい仕草が極めて江戸的です。時代劇とそこで生きてきた歌舞伎役者たちが気づきあげた方法の集大成が活かされています。江戸的な感性というのは、それ自体は目に見えないわけですが、江戸的な所作として視覚的に表現しているのです。

これも見えないものを見える形で表現するという映画の奥義がこの作品にも息づいているということですね。

 

残念すぎるクライマックス

 

さて。この作品は江戸時代と明治時代の感性の違いと、それから生じる葛藤を見事に視覚化した傑作であります。しかし、心の底から残念なのはクライマックスの決闘からその後の顛末に至るまでのキャメラワークです。ここがあまりに稚拙でした。

何が酷いかというと、やたらと説明的だったのです。セリフがやたらに多く、わざわざ言語化するまでもないことまでベラベラとしゃべくり倒す。キャメラもいちいち顔のアップを挟んでリズムが悪い。説明的なキャメラというのはほとんど罪悪です。不必要なことをいちいち丁寧に描写するというのは邦画にはよくあることですが、やっぱり酷いもんです。俳優も監督も人材不足、不出来な作品に囲まれていては業界全体のレベルが向上しないのも仕方ないんでしょうか。

 

参考文献

 

高橋康也河合祥一郎編注、「〈大修館シェイクスピア双書〉ハムレット」、2001、大修館書店

 

 

『フレンチアルプスで起きたこと』 圧倒的シュール

『フレンチアルプスで起きたこと』

 リューベン・オストルンド監督

2014年、スウェーデン

 

渋谷のユーロスペースで23日まで開催中の『スウェーデン映画祭』でかかっていた一本です。ブラックコメディという話でしたが、あんまりにもシュールすぎました。

 

音が引き出す異常な空間

 

冒頭。主人公一家がスキー場で家族写真を撮っています。カメラマンの指示に従って完成していく理想的な、円満な家族写真。非の打ち所がない光景です。それがカツン、という妻と夫のヘルメットがぶつかる些細な音で一気に崩れます。あまりに些細な音ですが、すべてが台無しになる瞬間を予感させるのには十分以上です。

 

この映画は終始こんな調子で、目立った内容もなく進んでいきます。必死に何もない、すべては順調だと取り繕う人々。なんとか冷静にことを収めようとしますが、どんどん狂っていきます。その様を演出する音の用い方が非常にみごとでした。淡々としたBGM、あるいは意味のない雑音が、唐突に別の音で途切れる。それはヘルメットがぶつかる音だったり、リフトの金具が引っかかる音だったりと様々ですが、観客が画面に集中していると、不意に乱入してくる別の音にハッとさせられます。。そのあたりの塩梅がとても魅力的でした。

キャメラもまた独特です。カットバックももちいられ、対話ややりとりに適切な緊張感をもたらしていたのですが、むしろ定点から捉えたショットが印象的でした。カットバックやパンのように視点が動くことはなく、ある一点から定点観測するかのようなシーンが多用されています。しかも、多くのシーンで登場人物の顔は見切れていたり、後ろ姿しか写っていなかったり、顔が写っていても鏡ごしだったりするのです。何事も起こっていないようでありながら、そこに確かに存在する動揺、押し込められた感情が切り取られているのでしょう。さらに言えば、音と同様、不意に挟まれるショットがあります。じっとみていて、そのまま続くのかと思ったら急に場面が変わる。そんなシーンも印象的でした。

 

どこまでもシュールでしたブラックな笑い

 

この映画は一応はコメディということなんですが、そのことを事前に知らなければ全く笑えない人もいるかもしれません。徹底して"笑えない"のです。描かれている事件はえげつないというほかない。キャメラも音響も緊張感を演出している。登場人物も真剣に事件に向き合っています。笑える要素がありません。

ここがきっとこの映画の肝でしょう。"笑えない"ことを笑わないと見てられないのです。笑えないということが笑える。一旦そのことに気づくと、高らかに響くオーケストラや、なんとも間の抜けた表情・言動が適切に配置されていることに気づくでしょう。淡々としてまじめくさった映像に介在する滑稽さ。そのシュールっぷりこそがこの映画の"映画の歓び"ではないでしょうか。しっかりと"笑いどころ"が用意されています。まあ結局笑えないんですが。

 

『ハッピーアワー』(2015年、濱口竜介監督)と

 

私のブログでは度々取り上げていますが、今回もこの映画との類似を感じました。笑えない出来事が丁寧に、淡々と描かれていて、みんな真面目に向き合っている。にも関わらず"笑いどころ"がしっかりと用意されていて、ああ、これはわらいとばすしていいんだなとなる。そんなところがよく似ています。もちろんどちらの映画もそれだけではない魅力を持っていますけれど。