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Kittyは映画が大キライ

私の私による私のための映画レビュー

『ブラック・スワン』 フロイトの忘れ物

ブラック・スワン』(原題:Black Swan)

ダーレン・アロノフスキー監督

 2010年、アメリカ

 

フロイト精神分析の世界

 

この映画を観ていて、いつもの通りの心理物理学的な映像の物理特性に対するアプローチ、あるいは表彰文化論的な映像表現と演技の特性に対するアプローチのいずれも無力であることを確信しました。この映画はあまりに映画らしくない、20世紀バレエを単純にハンディキャムに収めてしまっただけの映像だったからです。

抑圧的な母親(バーバラ・ハーシー)と性的に迫ってくる演出家(ヴァンサン・カッセル)によって発狂する若い女性(ナタリー・ポートマン)というこの構図はほぼ完全なフロイト的世界であり、前世紀末にすでに風化した思想です。それを21世紀に、なんのモンタージュ的な工夫もなく再現してしまった以上、この映画が我々の時代の社会に結ぶ表象は単なる懐古趣味であり、特筆すべきセンセーションのない平凡な映像にすぎません。

よってこの作品を映画としてとらえる方法は全く拒絶されており、ささやかな抵抗としてここに、精神分析という20世紀最大の詐欺事件が映画という芸術領域に残した爪痕を考察します。確かにスタニスラフスキー・システムアクターズ・スタジオ(The Actors Studio)の背後にフロイトたちの影響があった可能性は否定できません。しかし現在フロイトの功績とされることのあるほかの様々な事象と同様、スタニスラフスキーや身体論的な演劇理論も、実際には党の役者たちが持つ経験則にむしろ依るものであって、フロイトとの相関は偶然の類似にすぎません。

さて、それでは今回もまた心理学のお話です。大きく2つ、フロイトがしでかした非人道的な行いを指摘します。

 

セックスとジェンダーについての問題

 

フロイトは自身が心理学者であると述べていたそうですが、現在の心理学者の中に彼が同輩であることを肯定する者はいないでしょう。

彼の理論は基本的には、極端な性的一元論によります。いわく、人は皆、心の奥底に性的な欲求を抑え込んでいる。これは異性親に対する近親的欲求であり、適切に発散されない性欲によって心の病が生じる。

これはたしかに刺激的な考え方です。日常の経験に真っ向から反していますし、なんとなくすべてを説明できそうな気がしてしまいます。しかしこの考えが広く受け入れられた理由はむしろ、当時の男性優位社会にとってあまりに便利だったからでしょう。

 

ブラック・スワン』でも演出家がニナに迫るシーンがそれを体現しています。演出家の行動はセクハラどころかほとんどレイプです。しかしこれはニナの問題として、ニナが内に秘めた性的な欲求の発露として描かれます。

こんな理不尽があるでしょうか。フロイトの男性が女性を性的に虐げるのは、女性が総じて淫乱で誘惑的だからだということにされます。フロイトが自らの封建的な思想をまもるために診療のデータを改ざんしたことはあまりに有名ですが、それでもなお、フロイト的なジェンダー観がこの21世紀にも残っています。

 

科学に対する挑発

 

科学の世界では対立する仮説が乱立することも珍しくはありません。喧々諤々の議論、というよりはもうほとんどけんかに近い剣幕のやり取りでさえいたるところで目にします。

一方で、フロイトの学説に対しては現代の心理学者は誰一人として疑問を呈することはありません。なぜか。彼の理論が絶対的に優れているからでは当然なく、彼の理論は全く非科学的であるからです。

科学において最も重要なのは論理的で再現可能であることです。心理学も科学である以上、その目的は「こころ」という曖昧模糊としたなにかを、誰がみても納得する形で説明し、予測することです。しかしフロイト精神分析は彼一人の妄想でした。

うそをついている人間は指先が震えるだとか、夢の中身には「無意識」の心理状態が反映されるであるとか、こんなことは当時でさえ簡単に実証的に検討できたはずです。極めて単純な実験さえしていれば到底たどり着くはずがない、子供じみた妄想に「精神分析」がなんてたいそうな名前を付けて提出してしまった。そして多くの芸術家はなぜかそれを頭から信じ込んで、20世紀は2度目の中世になってしまった。全く的外れなあてずっぽうのことを科学とは呼びませんが、なぜかこんなものがいまだにまかり通っていて、ここにこうして映画が一本出来てしまった。開いた口が塞がらないとはまさにこのことです。

 

うちわネタ映画

 

結局のところ『ブラック・スワン』はフロイトの信者による壮大なうちわネタにすぎず、それ以上何も得られない映画でした。フロイトの思想を完ぺきに体現しているのかもしれませんが、それは映画ではなく宗教団体のプロパガンダです。

統合失調症をおもわれる精神疾患が描写されてはいますが、その原因がさも”リビドー”であるかのような言説は非科学的である上に、極めてミスリーディングな思想的テロリズムです。一日でも早くフロイトという名前が世界最大の科学的スキャンダルであることが常識となりますように。映画界がこの傷から立ち直りますように。

 

4月の覚書

お勉強にバイトにお引っ越しでもう目の回るような忙しさだったここ3ヶ月。落ち着いたからこれからのことをほんのちょっとだけ書いておきます。

 

①映画と心理学のお話

 

やっぱりベースとなるのはこの話題です。進学及びその後の研究計画を踏まえて、今年度はさらに詳細かつ厳密な心理学的アプローチを推し進めて行きたいと思います。

特に今後は映画というメディアを視覚、聴覚という2つのモダリティの感覚情報と、それらがともに持つより高次の意味情報の3側面から認知心理学・生態心理学的に検討して行く予定です。いかにして映画という刺激を解くのか、その計算理論とアルゴリズム、そして最終的には実現のための神経基盤を明らかにすことこそ映画心理学の使命でしょう。

映画も人の心が生んだ活動である以上、心理学者は自然科学の方放浪んでこれに挑まなければなりません。しかし、複数の高次段階処理によって解かれるべき課題です。単純な自然死とは決定的に異なる数学的特徴を持ちながらも、極めてリアルな外界の認知をアフォードする。これほど複雑な錯覚を実験心理学の手法に落とし込みのはかなり挑戦的な課題ですが、研究人生を賭けたっていいくらいのテーマでしょう。

 

②映画とジェンダーのお話

 

これも一方で常行きにかけているテーマです。自身のセクシュアリティを映画を通して見つめ直すこと、それ以上にジェンダーの問題が今日の映画にどのような表象を結んでいるのかを検討することを目指します。

特に今年はアメリカ映画界がほとんどわざとらしく多様性をアピールし始めました。それが妥当な理解を前提としたものかも考え直さなくてはなりません。千人いれば千通りの性がある、と言って仕舞えば月並みですが、映画というメディアには確実にジェンダーの表象が浮かんでいます。その変遷と現在とを忠実に理解していくのも映画研究の重大なアプローチではあるでしょう。

 

 

③映画と科学のお話

 

映画は芸術か否か。芸術だとすれば、芸術は科学の対象になるか。人文科学としてアプローチすれば、映画は社会の写し鏡でありえるかの議論を生じ、自然科学としてアプローチすればヒトはいかに映画を理解するかの問いに至ります。先の二つの論点は実はこの第3点目から派生したものだと言えるでしょう。

最近では学術サイドから基礎研究の大切さを叫ぶ声が上がり始めていますが、声を大にして叫ばなくてはならないほど日本の学問は切迫した状況にあります。役に立つ、立たないの不毛な議論を超えて、いま、ここにいる私を知ることが学問であり、人間の本質です。そのために我々は芸術を人文社会学と自然科学で考えるのです。

 

 

とまあ、このくらいの話を下に敷きながら、これからもしっかり絵映画のお勉強をしてまいりますので、皆様どうぞよろしくご指導願います。

『ラ・ラ・ランド』 映画が映画を殺した日

『ラ・ラ・ランド』(原題 : La La Land)

デミアン・チャゼル監督

2016年

 

アカデミー賞がどうとか、ストーリーが云々とか、そんなことはどうだっていいのです。この映画は、映画が背負い、築きあげてきた全てを乗り越えてしまいました。

 

映画のリアリズム

 

アンドレ・バザンはかの『映画とはなにか』(Qu'est-ce que le cinéma ?、1958〜1963)で、いみじくも映画がリアリズムの装置であることを暴きたてました。映画は演劇とも絵画とも異なる視覚芸術であるということを誰一人疑わなかったように思います。

如何に人間は"見る"のか。それはリアリズムだけの問題ではなく、還元的唯物論にとっても極めて重大な謎でしょう。"見られる"対象はあって、"見る"主体がいて、それでは"見る"という行為はどこに存在するのか。もっと言って仕舞えば、視覚オブジェクトと視覚系の神経基盤は存在するが、それではクオリアとは、心的表象とはなんであるのか。

映画と自然視の違いについては、以前別の記事で紹介した通りです。結論から言えば映画を観るとき、人間は物理的な現象よりもその現象の持つ意味から解を得ているらしいことが示唆されています(Schwan and Ildirar、2010)。要するに我々はただ単に運動やそれぞれのオブジェクトを知覚しているのではなく、それらを能動的につなぎ合わせることで映画を映画として楽しめるのだと考えられます。

 

『天才スピヴェット』 映画における"event"とは - Kittyは映画が大キライ

 

そうした心的メカニズムの特性を、映画作家たちは心理学者よりもずっとよく理解していました。グリフィス・モンタージュにしろ、スタニスラフスキー・システムにしろ、自然視とはまるでかけ離れた映像によって、極めてリアルな外界の表象を実現したのです。これこそが映画が映画たる所以であり、"映画の歓び"のもっとも本質的な部分でしょう。

しかし私には、そうした映画的リアリズムのあり方が大きく変わりつつあるように思えます。

 

イニャリトゥの目

 

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥが全く新しい映画を実現したことはもう常識になった頃でしょう。『レヴェナント:蘇りし者』(2015)は革命的でした。

、それまでの映画が自然視の世界をショットに解体した上で再構成することを目指したのに対し、イニャリトゥとエマニュエル・レベツキの映像はある一人称視点からの自然視を徹底的に忠実に再現します。それは『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)のようなシームレスな視点移動のみを指すのではなく、我々の視覚が持つ非連続性や曖昧さまでをも捉えてしまうキャメラワークです。この2人がVR映画なんてモノを作ろうとしているのは、至極当然の流れでしょう。リアリズムを超えた新しいリアリズムを体現するのがイニャリトゥです。

 

アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督がVRの短編を製作 撮影はルベツキ : 映画ニュース - 映画.com

 

チャゼルの耳

 

この『ラ・ラ・ランド』もまた、全く新しい時代の映画です。しかしチャゼルのあり方はイニャリトゥとは対象的に、聴覚の側面から定義されます。

映画が鑑賞者の心に結ぶ表象は、大きく3つの要因によって決定されることでしょう。映像、物語、そして音響です。しかし、トーキーの誕生から100年を経ても、映像と音響はほとんど独立していました。当然、映画音楽の傑作はこれまで無数に存在し、ミュージカルというジャンルは映画には欠かせません。すべて素晴らしい輝きを放っています。しかし、『ラ・ラ・ランド』のようにすべてが計算され尽くし、映像と音響が両方揃うことで初めて物語が成立するような映画はこれまでにありませんでした。

今までの映画において、映像と音響はそろぞれが独立して意味を完成していたか、あるいは映像の意味が音響によって強調されていました。「良い映画は音を消しても面白い」。こんな言葉が製作者にも観客にも流布していることからもそれがわかります。どんな傑作でさえ、それは2つの優れた作品を同時に提示されただけで、目と耳の両方を駆使して理解されなければ行けない映画は少なかった、あるいは全くなかったことでしょう。

そこを『ラ・ラ・ランド』 がひっくり返してしまいました。それぞれ1つずつではけして成立し得ない意味を映画館に見たしてしまった。統計学の言葉を借りれば、映画はついに主効果の時代を乗り越え、視覚と聴覚の交互作用を獲得したということになるでしょう。

具体的にどのシーンでどんな風に達成されていたかは残念ながらここには書けません。映画のネタバレになってしまうのはもちろん、じつはこの視覚と聴覚の協調については、現在の認知心理学のエッジであるからです。まだまだ探るべきことが多い領域ですし、そもそも人の研究内容を吹聴するのは研究者の禁忌ですから。ただ、『ラ・ラ・ランド』が音楽(さらには些細なもの音まで)をこれまでにないやり方で映画に落とし込んでしまった革命的作品であることは間違いないでしょう。

 

新しいアメリカ映画の時代

 

『ラ・ラ・ランド』はたっぷりの粋なオマージュと、伝統を受け止めた誠実な技術で魅惑的な作品でしたが、ただの懐古主義に陥らないところが傑作たる所以でしょう。人間の普遍的な姿を捉えながらも、繊細に今この時代を生きる人間の価値観を投影していました。映画のコードに従ってこうなるだろう、こういうパターンに違いないと思い込んだ観客を挑発するかのように、画面の中の登場人物たちはクルクルと目まぐるしく立ち回ります。喧嘩をするシーンにしろ、ただありきたりに喧嘩別れするのではなく、必死に平静を装いながら関係を維持しようと努める様子がリアルに描かれていました。とても現代らしい描写だったと思います。

映画としても、そこに現れる価値観としても極めて斬新だった『ラ・ラ・ランド』。世の中には軽薄な娯楽映画と見る自称知識人が多いようですが、いやこれは奇跡的な傑作です。

『ノスタルジア』 映画は解釈できるか

ノスタルジア』(原題 : Nostalghia)

アンドレイ・タルコフスキー監督

1983年、イタリア・ソ連

 

なんでこんなに退屈なんでしょうか。思わせぶりでありながらも理解と共感を許さない独善的な芸術家気取り。しかも映画的な"歓び"を一切持たない映像。これが芸術なら、映画は娯楽のままでいい。

 

蝋燭と水と鏡と

 

映画は解釈されるものではありません。イベントをキャメラを通じる体験だから、ある映画がある個人に持つ意味は身体的で内密な主観です。映画はキャメラに映る以上のストーリーテリングをしてはならない。これは、ノーランやフィンチャーが低俗である理由の一つであることは疑う余地がありません。

さて、『ノスタルジア』はなんだったのか。この映画は一見すると意味を為していません。荒唐無稽で、何かを主張するかのような思わせぶりなセリフが連なります。しかしそこにはわざとらしい「解釈」の余地がひけらかされています。ここに手放しの賞賛の可能性が生まれています。

平たく言えば、小難しいことを自慢げに捲したてる監督と、それを通ぶってちやほやする観客の構図です。

面白い映画ですし、美しい映像です。タルコフスキーが重要な作家であることも事実です。しかし、このやり方は良くない。映画に図像解釈学的なモチーフを散りばめて、それを本題にしてしまったらそれは映画ではなく、"動く絵画"なのです。

前半に繰り返される水は、雨として降り注ぎ、古びた瓶に溜まります。欠けたり汚れたりした鏡が登場人物の姿を度々映します。極めつけは最後のシーンで、主人公(オレーグ・ヤンコフスキー)は蝋燭を大事に捧げながら温泉を渡り、遂には倒れました。

救い主は復活せず、聖母は穢され、主の栄光は弱々しい。そんな世界、そんな時代にあって、挫けそうな信仰を何度も奮いおこして遂には奇蹟を起こし、安らかに眠りにつく男。図像解釈をすればこんなところでしょうか。あまりにお粗末です。主人公が故郷に想いを馳せるシークエンスでは、キャメラは徐々に引いていき、祭壇画のような構図が浮かび上がります。この映画自体が聖人の伝説を描く絵画であると示すのでしょうか。そう思えば犬が何匹も描かれるのは羊飼いを想起させ、主人公が追う作曲家も救い主になぞらえた聖者に見えます。

結局のところ、こんな風に解釈しなければいけない時点で碌な映画ではないのです。映画に解釈を求めてはならない。メタファーやシンボルは、この純然たる視覚体験メディアを堕落させます。

 

『信じる人を見る宗教映画祭』

 

この作品はユーロスペースで先日まで開催していた『信じる人を見る宗教映画祭』で鑑賞しました。残念なことにスケジュールの都合でこの一本しか観られなかったのですが、それでも十分以上に勉強になりました。

「信じる人を見る」ということで興味深かったわけですが、私にとっては少し違う意味もありました。私自身が無教会主義のクリスチャンで「信じる人」ので、この映画祭は「見られる」映画祭でもあったのです。どんな作品が選ばれるか、それがどんな信仰を描いているのか。『シークレット・サンシャイン』(イ・チャンドン監督、2007年)が上映されたのが特に印象的でした。あれはわたしの信仰を根本から問い直した作品の一つです。初めて見たのはもう6年前になりますか。

もう一点、これが日本大学の学生によって運営された映画祭だったことも注目に値します。

わたしは都内で映画に関心領域を置いて認知心理学を学んでいます。しかし弊学には他に映画を学ぶ学生はほとんどいません。仏文や教養学部にはいるのかもしれませんが学際交流には至らず、てんでバラバラに細々と勉強しているくらいです。そんななか日大の学生がこうして、映画を学ぶ学生の力を結集し、広く示してくれたことには勇気付けられます。せっかく映画都市東京で映画を学んでいるのですから、わたしも映画研究を盛り上げていきたいものです。

 

『世界にひとつのプレイブック』 神話とドラマの映画たち

世界にひとつのプレイブック』(原題: Silver Linings Playbook)

デヴィッド・O・ラッセル監督

2012年

 

決して駄作ではない

 

極めて評価の高い作品で、私も楽しめました。双極性障害を抱える男性(ブラッドリー・クーパー)が人との出会いと困難への挑戦を通じて家族との絆を取り戻し、救われていくという筋書きはありがちですが確かに面白い。ブラッドリー・クーパージェニファー・ローレンスロバート・デ・ニーロ、そしてクリス・タッカーといった俳優たちの演技も印象的です。その点では、彼らの視線に着目したキャメラは及第点以上なのかもしれません。というか私の好みと違うだけで多分個々の技術は今のアメリカでは評価に値するのでしょう。紛れもなく"アメリカ"の姿を映画に落とし込んだ名作であり、その意味では『フォレスト・ガンプ/一期一会』(ロバート・ゼメキス監督、1994年)や『アメリカン・ビューティー』(サム・メンデス監督、1999年)の系譜でしょう。もっともサム・メンデスはイギリス人で、極めてイギリス的な映画術を持つ作家ですから、『アメリカン・ビューティー』はけして"アメリカ映画"ではないのですが。それは置いておいても、この『世界にひとつのプレイブック』がアメリカの今を如実に表していて、恐らくはそれ故に評価された作品であることは注目に値するでしょう。

そもそも製作の動機を自分の生きる(あるいは単に関わる)社会に置いているか否かは別問題として、ある国の"今、ここ"を描いた作品はどの国にもあります。その国に出現した社会の様相が、映画の上に滲み出ている映画です。それこそ小津安二郎作品は、いかに西洋の技術だった映画によって日本人を取るかに拘泥していましたし、マノエル・ド・オリヴェイラオリヴェイラもいくつかの作品では露骨にポルトガル史の解体と再構築を試みています。新しくてセンセーショナルだったのは『マジカル・ガール』(カルロス・ベルムト監督、2014年)や『人間の値打ち』(パオロ・ヴィルツィ監督、2013年)でしょうか。『きっとうまくいく』(ラージクマール・ヒラー二監督、2009年)なんかもそうです。これらの映画はそれぞれが国と社会に向き合った結果ですが、その態度については全く異なるアプローチであるという事実こそ重要なのです。『きっとうまくいく』のついては過去の記事を類似の切り口で書いているのでそちらを読んでいただくとして、そのほかの作品に2つの分類を試みようかと思います。神話的映画とドラマ的映画の二つの概念を仮定した上で、両者の特徴を議論し、『世界でひとつのプレイブック』の最終的な評価を下します。当然、扱うのは「いかに社会を描くか」であって、「どんな社会を描くのか」という陳腐な社会分析ではありません。そういうのは町山なり宮台なりを読んだらいいでしょう。

『PK』/『きっとうまくいく』 どうしちゃったのインド? - Kittyは映画が大キライ

 

神話的映画の物語

 

神話的な映画とは何か。批評家たちはわりといい加減にこの言葉を使いやがるのですが、私もあえていい加減に使いたいと思います。私が今日ここに言う神話的映画とは、『マジカル・ガール』や『アブラハム渓谷』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督や『この世界の片隅に』(片渕須直監督、2016年)のような映画群です。本来は「その国の国民文化を"形成する"映画」と言うニュアンスが多少なり含まれるのかもしれませんが、あえてここでは「その国にすでに"形成されていた"国民文化を、個人的な視点で解体し捉え直す、その社会の普遍的な共感を得る映画」とします。どこかでも書きましたが例えば、『アブラハム渓谷』はポルトガル史をオリヴェイラが語るプロセスを一人の女性の肉体の上に重ねた映画です。その語りはほとんど監督の口による学術的議論であり、その在り方は『レステロの老人』(2014年)にも共通しています。思えば『アニキ・ボボ』(1942年)もそうですが、オリヴェイラのキャメラは常にモデストで、それでいて没入感があります。『アブラハム渓谷』における絵画的画面構成では、一くだりのセリフを宣言的に放った役者の顔を、正面から定点的に写していました。これは歌舞伎を想起させる美しさですが、同時に対話的な没入感を導き、その感性は『ハッピーアワー』(濱口竜介、2015年)にも継承されています。キャメラ装置は変わっても、正面からの真摯な役者の表情が対話の印象を、物語の印象を産み、社会のあり方を観客全てに投げかける点は完全にオリヴェイラの手法に一致していました。そしてこのやり方は"神話を語る"という、映画どころか小説さえまだない時代の「物語」の手法に通じています。

 『この世界の片隅に』 アニメなんて観ないと思ってた - Kittyは映画が大キライ

個人的なキャメラという点では、『人間の値打ち』序盤のワンシーンがとても良い例になるでしょう。帰路についた男性—彼はこの後すぐに車に跳ね飛ばされ、それが物語の起点と焦点になるのですが—が自転車にまたがり、漕ぎだすまでの動作が映されます。ここでのキャメラは彼の動きに寄り添うようにブレた映像ですが、非常に控えめに彼の背面からのアングルに終始しています。カットバックやズームの動きがない、静謐かつ揺らいだ映像ですが、この映像は驚異的です。その場面のその地点に我々が存在し、キャメラを通した映像としてでなく、自ら体験としてその場面を観察したと仮定した場合に我々の眼に映る像と完全に一致しているからです。だから我々はその瞬間を生々しく息詰まる感覚で観ることができるのです。この作品のこのシーンに限らず、ヨーロッパ映画にはこうした一件控えめで客観的なハンディな映像によって、個人的な経験の緊張感を引き出す手法に優れているように感じます。

ここまで、個人的な没入感を引き出すことで、"語り"の特質を帯びた映像のついて述べました。神話的な、叙事詩的な手法です。興味深いのは、こうした映画はすでになんらかのー恐らくは小説や詩や政治や歴史ーがすでに語ったことをもう一度映画で語り直すときのやり方が、神話の語りと重なり合うという逆説です。ここについては後でもう一度、ドラマ的映画との比較でもう一度扱います。

それでは神話的映画の話題の最後に、それらが往々にして共有する特徴について述べしょう。

『マジカル・ガール』に描かれるのは、困窮の中で利己的に振る舞うスペイン人たちと、彼らを翻弄するシニカルな運命でした。まるきりギリシャ悲劇的ではありますが、同時にイギリス的演劇の風刺性も備えています。そしてそのキャメラは個人的な語りでもあります。この作品がスペインの"今、ここ"を捉えた神話であるのはまず間違いありませんが、さらに注目すべきは説明責任を一切放棄したプロットにあります。ひとつの悲劇が次の悲劇を生み出し、最終的には巡り巡って帰ってくるという大局的な視点は、ともすれば御都合主義です。そうなることにはリアリティがありません。バルバラ(バルバラ・レニー)は途中、不思議な"部屋"の試練に立ち向かうことになりますが、この試練がなんなのか、この試練を貸す老人は何者なのかは明かされません。これになんらかのメタファーを見出すことは無意味でしょう。なぜならこの説明不可能性こそが映画を神話たらしめる所以だからです。理由はなく、ただそうであるからそうなった。そのことを主観的な語りによって、事実ではなく真実として映像化する。それが神話的映画です。荒唐無稽で意味不明、デウス・エクス・マキナと言われても仕方ないプロットこそが、神話的映画が必然的に負う特徴だと言えるのではないでしょうか。

 

客観的で劇的な映画

 

こちらの分類に適した語を私は持ち合わせないのですが、とりあえずは「ドラマ映画」ということにしておきます。ラテン語の素養はありませんが、英語とイタリア語で考えると今の所はこの語が最も適切な気がするのです。

ドラマ映画の例として私の念頭にあるのはまずは『フォレスト・ガンプ/一期一会』で、これがまるきり神話的でないということを主張したいのですが、他には『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』や『17歳のカルテ』、『高慢と偏見とゾンビ』あたりです。というよりも、かなり多くのハリウッド映画がそうではないかと考えています。もちろんこの概念は私が即興で考案したものですから、ひょっとすると中には神話性とドラマ性を両立するものもあるかもしれません。私としても両者を二項対立に持ち込むという非科学的な態度はとらないつもりです。とはいいつつも、議論を整理するため、ハリウッドの神話的映画を先に考えてみましょう。

『ファンタスティック・ビースト』と魔法使いの旅』 ありがとう、ほんとうにありがとう - Kittyは映画が大キライ

『高慢と偏見とゾンビ』 心の底から楽しめました - Kittyは映画が大キライ 

『17歳のカルテ』 ホラー映画の方法論 - Kittyは映画が大キライ 

『ダーティ・ハリー』(ドン・シーゲル監督、1971年)は映画史に燦然と輝く大傑作であり、おそらくはこの地球上の存在する最も美しい創作物の一つです。この映画は神話的映画として捉えられるかもしれません。傷を負ったチコ(レニ・サントニ)とハリー(クリント・イーストウッド)の会話のシーン、ハリーがサソリ(アンディ・ロビンソン)を打擲するシーンなど、息詰まる迫力がありますが、極めてモデストな描写です。この映画にはサソリとハリーがアメリカ社会を舞台に対決する神話かもしれません。そこには"アメリカ"の語り直しがあります(イーストウッド本人がのちに述べているように、この作品の目的は社会風刺ではありません。帰結の一側面に注目しているだけです)。それはイーストウッドののちの出演・監督作品に共通する特徴でもあります。しかも彼の作品は劇的な(ドラマ的な)構造を脱し、展開のピークと演技のピークを敢えてずらすという特徴があります(蓮實重彦の指摘ですが、現在手元に資料がなく出典の詳細は不明です)。その意味でイーストウッド映画は神話的です。ただ、『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督、1976年)が神話的であるかは微妙な問題ではないでしょうか。スコセッシ作品は独特の編集先行のスタイルであり、個人的な没入感を導く主観的キャメラというよりむしろ、劇的な効果を生むモンタージュのように思えてならないのです。

ハリウッド映画を議論する上で重要なことですので、本来の「神話」についても少し触れておきます。私が観たところでは『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン監督、1952年)、『我が谷は緑なりき』(ジョン・フォード監督、1941年)、『素晴らしき哉、人生!』(フランク・キャプラ監督、1946年)あたりが鉄板でしょうか。"アメリカ"という、イーストウッドやスコセッシらそれ以後の映画が立ち向かうことになったイメージを形成した映画です。これらは「ドラマ映画」の系譜に直接流入していきます。本来はこちらこそが「神話的映画」でしょうし、私のやり方は批評の本道からすれば邪道か誤謬でしょう。ですがこれは批評ではなく感想文ですからこのまま続けます。

要するに、グリフィス・モンタージュを活用した客観的で一歩引いたキャメラワークと、整合性を強く要請する矛盾のないリアリティです。客観的なキャメラワークで取られた作品では、そこに起こるイベントは観客自身の視点で観察されるのではなく、キャメラが納めた映像を第三者的に観ることになります。例えば『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』では、我々は1920年代のニューヨークにいるのではなく、そこで起きたことを21世紀の日本の映画館で見ていることになるのです。これは没入感の点で劣るとか、面白みがないとかそういうことでなく、むしろ私はこうした態度こそ視覚世界の価値を再構成する"映画の歓び"であると考えます。我々はその映画において不在であるべきではないかと思うのです。観客不在で客観的に描かれる映像こそが、ドラマ的映画の特徴の1点目です。

次は、説明責任です。『マジカル・ガール』を例に神話的映画の説明不可能な荒唐無稽さを述べましたが、ドラマ的映画では徹底して理由と経過と結果が説明され尽くします。思えば『ダーティハリー』のサソリは、ある意味では説明不可能性の塊でした。一見彼の行動は合理的です。犯行に至るのはベトナムでのトラウマによる狂気から、黒人無免許医に自分を殴らせるのはハリーを陥れるため。ですがこれは本当に説明責任を果たしているでしょうか。私はそうは思いません。よく考えれば意味不明です。ベトナムで傷ついたところで人を殺す理由にはなりませんし、いくら作戦でも自分をボコボコに殴らせるなんてどうかしています。生々しいキャラクター性とは裏腹に、彼の行動原理は宙ぶらりんなのです。

では説明責任を果たしているとはどういうことか。『世界にひとつのプレイブック』がこそがその典型的な例であり、それによってこの作品は陳腐なのです。

 

神話にもなれず、ドラマにもなれず

 

世界にひとつのプレイブック』は社会に適応できない男と女、そして家族のあり方を描く作品でした。そしてそのそれぞれに具体的な問題とその理由が明確でに、くっきりと描かれています。例えば主人公は、感情を爆発させてひっきりなしにトラブルを起こし、自身もそれに悩み苦しんでいます。そんな主人公の状態は

双極性障害

・妻の浮気のトラウマ

父親(ロバート・デ・ニーロ)も似たような性格

という理由で、言語的・非言語的に説明されます。しかも彼が得る疎外感は、例えば帰宅直後に自分の写真だけが壁から外されている、という描写で具体的に説明されてしまいます。ブラッドリー・クーパーを使っているのにこんな過剰な描写が入るのです。彼ならそんなシークエンスもなくしっかりと主人公の孤独や不安を印象付けられたはずです。ただ、ここまではまあ良いのです。説明責任を果たすこと自体は、別にひとつのアプローチとして成立します。過剰ではありますが、まだ許容できます。

しかしこの時のキャメラワークがひどい。写真を見やるクーパーの視線をそのままなぞったかのような動的なキャメラですが、このタイミングで唐突に入ってもむしろ理解を阻害しストレス価を高めるだけです。Schwan (2010)にある通り、映画の理解度は現実の近くとの類似性ではなく、意味的な繋がりに強く依存しますから、このシークエンスは分かりにくさ、異物感を産む悪手でしょう。他にも私が神話的映画の特徴として紹介したヨーロッパ映画独特のキャメラを模倣するかのような一人称視点やパンショットが多用されていますが、そのどれもが的外れで、個人的な没入感を産むに至っていません。本当に残念です。

主観的なキャメラを用いようとして失敗したり、露骨に"アメリカ社会の闇"を描こうとしたり、社会派ぶって神話的映画の系譜を意識しているのが透けて見えます。これはほとんど『フォレスト・ガンプ/一期一会』にかさなりますが、あちらはそれでもドラマチックな画面作りで劇的な面白さは担保されていました。引き換えこちらはどれも中途半端で、薄っぺら、役者の名演がなければ救いようがない駄作になっていたことでしょう。過剰な説明と、没入感を阻害するキャメラ。それがこの作品を面白く思いながらも乗り切れなかった理由です。『世界にひとつのプレイブック』は、神話にもドラマにもなれなかった中途半端なキメラなのです。

 

『この世界の片隅に』 アニメなんて観ないと思ってた

この世界の片隅に

片渕須直監督

2016年、日本

 

私はアニメーション作品を批評する技術と知識を持たないため、普段は滅多に観ないのですが、今作についてはユーロスペースの宣伝を見て以来気になってはいました。そんなときに三浦哲哉先生の絶賛を耳にしたので、思い立って観てきた次第です。

 

すくなくとも戦争映画ではない

 

第二次大戦中の広島・呉が舞台の映画ですから、当然戦争の話が中心になりますし、人も死にます。ただ、全体として戦争の悲惨さだとか、運命の過酷さをひけらかすようなところは全くありませんでした。この映画はもっと普遍的な、すずさん(声:のん)という一人の人間が、"この世界の片隅に"、いかように在るかを描いたドラマです。だから戦争映画で一括りにしたり、あえて日常映画だなんて言い方にして貶めたりすることはできないでしょう。(ウラケン先生の4コマ漫画がその辺を極めてわかりやすく説明しています。)ここでは敢えて、一人の女性の肉体の上に過ぎていった時間と空間の視覚表象とでもいっておきます。

 

私が強調したいのは、すずさんという主人公が生々しい個人として、"固い固い肉体"を備えた存在とした我々の眼前に登場することの素晴らしさです。冒頭では入祭の歌によって厳かに、ほとんど霊的な神聖さと共にすずさんの物語が開幕します。それは、のんによって幼いすずさんに"息が吹き込まれ"ることによって始まる"誕生"の儀式でしょう。この瞬間に産まれた浦野すずという女の子と共に、観客はこれからの2時間の上映時間を、そして10年に渡る戦争の時間を過ごすことになるのです。

まったくアニメというのは素晴らしくて、すずさんの上を流れる時間、すずさんが生きる空間をスクリーンを超えて描き切ってくれます。実写映画とも3Dアニメとも違う方法論が確かに存在しています。彼女が触れるすべてのものの質感を我々は共感的に感じます。踏みしめる土、まな板にあたる包丁、夫の腕といったあらゆる一切を観客も共に感じるのです。だから後半に戦火がすずさんの日々に迫るにつれて、観客の肉体も同じ苦痛に苛まれます。痛み、暑さ、飢え、喪失もまた、自分のものとして身に迫るのです。

クライマックスにすずさんが叫ぶ言葉は、文字に起こして仕舞えば現代人には薄っぺらでしょう。しかし、彼女と共に10年を生きた観客は、ここでもまた彼女とともに慟哭するのです。

 

なぜこれを観ないのか

 

今回は敢えて短めに終えておきます。友人に長すぎると指摘されたので笑

ただ最後に、もし東京に住んでいて、映画通を気取るなら。そうでなくても学問を志したり、芸術を愛する心を持つのなら、この映画を観ないというのは一つの大きな損失だと考えていただいて結構です。何を観るのも何を観ないのも、映画ファンなら自分で決めてしかるべきでしょうが、私は一人の映画狂いとしていここに声を大にして言います。この映画だけは観たほうがいい。

『ファンタスティック・ビースト』と魔法使いの旅』 ありがとう、ほんとうにありがとう

『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(原題 : Fantastic Beasts & Where to Find Them)

デヴィッド・イェーツ監督

J・K・ローリング脚本

2016年、イギリス・アメリカ

 

ここしばらく大学が忙しくて映画を全然観られなかったんですが、ポッタリアン(熱狂的なハリポタファン)としてこればっかりは観ないわけにはいきません。23日の公開初日、朝イチの回に駆けつけました。

たまには人様に魅力を伝えるブログを書いてみます。核心に触れない若干のネタバレがあるのでご注意を。

 

ファンタビって何?

 

ハリー・ポッター』シリーズの続編ということで大々的に宣伝されている今作ですが、その原作は2001年にJ・K・ローリングが書いた同タイトルの書籍です。日本でも『幻の動物とその生息地』(松岡佑子・訳、静山社)で出版されました。(ところで、どうしてこの邦題を使わなかったんでしょうか?松岡訳も問題がないわけではないですが、映画版の邦題は酷すぎるでしょう。)この本はハリーたちが作中で使っている教科書のレプリカという設定で出版されました。そしてその本の作者こそが『ファンタビ』の主人公、ニュート・スキャマンダー(演:エディ・レッドメイン)です。彼に関しては作中でも数回言及されていますが、その正体はずっと謎に包まれていました。何せ物語に直接関わらないので、単なる設定上の人物にすぎなかったわけです。ずいぶん個性的で魅力的な人物なのはなんとなくわかっていても、どんな人なのか、どうやってあの教科書を書き上げたのかはわかりませんでした。

そんな彼にスポットライトを当て、彼が『幻の動物とその生息地』を書き上げるべく世界を飛び回っていた頃を描いたのが『ファンタビ』です。ですから原作にしているとはいえ本の中身を追うわけではなく、その背後にあるニュートの生き様と冒険を掘り下げていくファンタジー・ドラマと言えるでしょう。

彼がどうやってあの教科書を書いたのか。一人の魔法使いとして何を思い、何を成し遂げたのか。そこには単なるファンサービスを超えた、普遍的なドラマがあります。それではこの映画の魅力を3つに分けてご紹介しましょう。

 

①登場人物の魅力

 

先述の通り、ニュートという人物は謎めいた存在でした。名前はみんなが知っているし、経歴や功績も設定が公開されているのに、どんな人だったのかはわからないハリボテだったのです。そんな彼が、この度実写映画によって肉付けされ、生きた人間として我々の前に現れました。それだけでも素晴らしいことです。しかしそれ以上に、我々の前に現れたニュート・スキャマンダーは、風変わりで、優しく、一生懸命な、愛すべき人物だったのです。

 

思えば"ハリー・ポッター"の物語はいつも「はみ出し者」の物語でした。伯母一家に拒絶されながら育ったハリー、類い稀な知性のせいで周りに距離を置かれてしまうハーマイオニー、個性的な兄たちに劣等感を抱き続けたロン。ダンブルドアでさえ、過去に背負った悲しい傷に苛まれ、ヴォルデモートに至っては生き過ぎた孤独と絶望があの惨劇を産んだのでした。ハリーたちの物語は最初から最後まで、心に傷を負いながらも、誰かを信じ、愛そうと足掻き続ける人々が、自分の居場所を見つけ出す物語でした。

その意味でニュートは新シリーズの主人公にふさわしい魔法使いでした。魔法動物に夢中な"オタク"で、どうやらそれが原因でホグワーツを追われ、大切な人との別れも経験しています。彼もまた、孤独な「はみ出し者」です。それでも魔法動物を愛し続け、彼らが安心して暮らせる世界を作るために奔走する彼の優しさは、魔法使いや「ノン・マジ」にも分け隔てなく向けられます。一見すれば奇人変人の類ですが、そんな彼の周りには次第に大切な友人たちが集まってくるのです。ニュートと彼らの出会いについてはネタバレを避けるためにここでは言及しませんが、友人たちもニュートに負けず劣らず魅力的な人々です。

そんなニュートを演じるのはあのエディ・レッドメインです。「レ・ミゼラブル」(トム・フーパー監督、2012年)でも評価されていたらしいですが、私の印象はむしろ同じ監督の「リリーのすべて」(2015年)の方が強烈でした。役が役だけに当たり前のような気もしますが、少しはにかんだ繊細な微笑が、アイナーとリリーの両方に映えていましたし、人物の深い内面を微妙に演じ分ける実力も複雑な役において遺憾無く発揮されていました。今作でも、彼の真骨頂である魔性の微笑は健在で、ニュートの愛くるしさとチラリと覗く寂しさを巧みに印象付けています。まったく素晴らしい俳優です。個人的には今一番好きな俳優の1人かもしれません。

 

②時代と舞台設定の魅力

 

ハリーたちが闇の魔法と戦ったのは1990年代でしたが、ニュートがアメリカを訪れた今作は1920年代のお話です。20年代のアメリカといえば言わずと知れた禁酒法時代。魔法界では名高い闇の魔法使い・グリンデルバルドが暗躍していました。アメリカでも魔女狩りの機運が高まりつつある、そんな時代です。

 この時代のアメリカが持つ独特な魅力は、魔法とは関係なく我々を虜にしてきました。レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」やデ・パルマの「アンタッチャブル」なんかはいい例でしょう。モリコーネの雰囲気です。最近では「欲望のバージニア」(ジョン・ヒルコート監督、2012年)も見応えがありました。この頃のアメリカは、第一次大戦後の未曾有の繁栄の時期であると同時に、ギャングが跋扈し、世界恐慌の足音がどこか遠くにはもう聞こえる不安の日々でもありました。狂気じみた繁栄と、形の見えない恐怖が入り混じる矛盾した熱狂。自動車とトミーガンが象徴するアウトローの時代。私たちを惹きつけてやまない時代です。

ファンタビはこの時代をうまく魔法界に落とし込んでいます。ヨーロッパのグリンデルバルド、アメリカの魔女狩り。裏社会を牛耳る小鬼のマフィア。そんな時代に懸命に人を信じ、魔法動物もノン・マジも分け隔てなく接するニュートのひたむきさが際立ちます。

もちろん、この時代独特のファッションや小道具も魅力的です。特に小鬼たちの地下クラブが素晴らしい。音楽、カクテル、壁の手配書…禁酒法時代、アメリカ、魔法界というこの物語の舞台のエッセンスが詰まっています。

 

③物語の魅力

 

この作品が普遍的な物語であるというのもまた事実です。『ハリー・ポッター』がそうだったように、ファンタビもまた、拒絶と受容の葛藤をめぐる物語であるといえるでしょう。

魔法を拒絶するノン・マジ、彼らとの開戦を主張するグリンデルバルド。救い難い憎しみの構造の中で、ニュートはただ彼らしい優しさで、友人に向かい合います。ニュートの在り方は、ハリーやダンブルドアもそうであったような、本物のヒーローです。この作品に限らず、ローリングの物語は多分に政治的な要素をふくんでいますが、それでもなお、我々の心に訴えかける愛と勇気の物語なのです。